NO.18(2004年6月)


宇宙論(Cosmology)とは何か
――魂の防衛としての宇宙解釈――

渡辺 久義   

目的・意味が課題に

 宇宙論とはどういうことを問う学問であるかということについて、ヒュー・ロス(Hugh Ross)は『神の指紋』(The Fingerprint of God, 1989)の中で次のように箇条書きしている。

1.宇宙はその大きさや中味が有限なのか、無限なのか。
2.宇宙は永劫の過去からここにあったのか、それとも始まりがあったのか。
3. 宇宙は創造されたものか。
4. 宇宙が創造されたものでないとしたら、どうしてここにあるようになったのか。
5.もし宇宙が創造されたものとしたら、この創造はどのようにして達成されたのか。その発動者と創造の出来事について、我々は何を知ることができるか。
6.物理学の法則や常数を支配するのは誰なのか、あるいは何なのか。
7.そのような法則は偶然の産物か、それとも計画(デザイン)されたものか。
8.物理学の法則や常数は、生命を支え発展させることに、どのようにかかわっているか。
9.宇宙の明らかに観測される次元のかなたに、知ることのできる存在があるのか。
10.宇宙は永遠に拡大し続けると考えてよいのか、それともビッグ・クランチによる縮小の時がやってくるのか。

 宇宙論と言えば、車椅子の宇宙学者として有名な、あのスティーヴン・ホーキング博士のような科学者を思い浮かべるであろう。けれどもここに箇条書きされているような問いかけは、科学であると同時に科学の領域を超えたものである。近代科学はもともと、自然界の「いかにして」(How)だけに問題を限定して出発したのだが、それがあまりにもうまくいったがために、自然界の「なぜ」(Why)や「何のために」(What for) は問うに価しない、いや存在しない、ということになってしまった。その科学が進歩して、宇宙の起源というような問題にまで手が届くに及んで、科学はにわかに当惑し始めたというべきであろう。宇宙の起源は突き止めたが、そのことの「なぜ」「何のために」は問うに価しない、というのはどう考えても理性をもった人間を満足させるものではないからである。
 このことについての科学者の戸惑いは、アインシュタインの有名な逸話に代表されていると言ってよい。アインシュタインは、自分の提唱する「一般相対性理論」が、宇宙は過去のある時点から始まらなければならないことを要求しているのに、そういう宇宙を嫌った彼がそうならないように理論を修正した。ところが結局は、宇宙有限説を認めて元へ戻さざるをえなくなり、「生涯最大の失敗」だとして大いに後悔したという話である。
 宇宙論というのは従って、科学者の作り出した分野ではあるが、科学はここにきて自らの領域を超える問題を自らに突きつけたという形である。もともと近代科学以前の自然学においては、自然界の目的も意味も問うものであったのが、いつしか機械的側面だけに還元されてしまったのである。それがここにいたって、再び復活せざるをえなくなったと言えるだろう。

人はまさに「生かされている」

 物理的宇宙の始まりとしてのビッグ・バン説――この呼称は最初は揶揄であった――は、年月を経るにつれてますます疑いえぬものになっていくようである。これは確かにキリスト教のような、神による宇宙創造という考えを支持するものと解釈できる。科学者はできれば自然主義(唯物論)の枠内で考えようとするから、これは科学者にとっては困ったことであった。そこで137億年前(最近のNASAの報告による)のこの出来事を自然と超自然の接点と見ることを避けようとして、いわゆる特異点(singularity 物理法則の通用しなくなる時空の点)なしに済ますホーキング博士の理論など、無限に膨張と収縮を繰り返す宇宙モデル――最初から宇宙はあったとする考え方――が試みられているようである。しかし、何らかの意味での超自然を認めるのが科学者の間の傾向だとヒュー・ロスは言っている。彼によれば、最近は、シンポジウムなどのために無神論者を探そうとすると、科学者の中にはあまりいないので、文科系の学者に求めるそうである。
 一方、哲学者や宗教家の方も、彼らの最大の関心事が科学者と同じく宇宙解釈(従って人間解釈)である以上は、このビッグ・バン説を始めとして、物理常数の「微調整」や「インテリジェント・デザイン」の発見や理論に、無関心でいることはできないはずである。そういうことを全く知らなかったカントやヘーゲルはしかたがないとして、二十世紀の主要な哲学者であるホワイトヘッドやハイデガーが、もしもう少し長く生きて、こういった科学者の理論に接していたら、ずいぶん違った、もっと具体的な立論をしたであろうと思われる。
 科学者がどう言おうと、哲学や宗教にはその特有の世界観があるのだ、というような態度は通用しなくなったと言うべきである。例えば仏教やヒンドゥー教は、創造も進化も言わず、宇宙は永遠の昔からこの状態であったかのように教えるが、その点はやはり謙虚に修正あるいは調整しなければならないだろう。(どんな宗教でも完成した宗教などというものはなく、絶えず成長すべきものなのである。そのことの誤解が宗教紛争を生む一つの要因である。科学との対話も、他宗教との対話も拒否するような宗教は滅びるべきである。)
 その点で特筆すべきことは、日本語には、外国語に翻訳不能の「生かされている」というすぐれた言い方があることである。我が国の宗教家は好んで「我々は生きているのでなく、生かされているのだ」と教える。だが、それに共感し納得する人でも、もしかすると心の中では、「ただそれは宗教的な考え方であって、科学的に通用することではないだろう」と思っていないだろうか。それは思い違いである。いま最先端の科学者たちが口を揃え、声を大にして唱えているのが、まさにこの「人間は生かされている存在だ」という学説なのである。
 また、我々が人間として生まれてくることの難しさを、千年に一度、海面に浮かび上がって、その首が偶然にも浮木の穴にはまる片目の海亀にたとえた仏教の説話(以前に紹介した)も、にわかに我々にアピールしてくるのである。なぜなら、それはまさに科学的事実というべきであって、我々の存在が偶然だとする確率は事実上ゼロでなければならないのである。

ペシミズムに陥る無神論

 ヒュー・ロスの提示するような宇宙論の諸課題にどう答えるか。それは科学者と哲学者あるいは宗教家の共同の仕事でなければならない。我々の住む宇宙をどう解釈するかによって、人間は全く無意味な宇宙の塵にもなれば、最大限の意味を付与された、創造者によって最大限の悲願が込められた存在にもなる。
 前者の解釈をする無神論的宇宙学者のカール・セーガンは、一九〇〇年の「ボエジャー一号」による地球の写真を見ながらこう述懐している(Pale Blue Dot, 1994)。

 太陽光線の反射のために…地球は、この小さな世界になにか特別の意味でもあるかのように、光線の帯の中に座っている。しかしそれは幾何学と光学のいたずらであるに過ぎない。…我々の態度、我々の勝手な尊大さ、この宇宙の中で特権的位置を占めているという我々の思い込みが、この青白い光の点によって挑戦を受けているのだ。我々の惑星は、大きな包み込む宇宙の暗闇の中の、孤独な一つの塵である。闇に埋もれたなかで、この広大さのなかで、我々のこのありさまを救うために、どこか他所から助けがやってくるということを示唆するものは何もないのである。

 しかしこのペシミズムは現時点で支持されるであろうか。このように考えなければならぬ根拠は何もなく、科学が進むにつれて、この対極の考え方、つまり我々の惑星はまさに「特権的位置」を与えられていると考えねばならない証拠が次々と提出されているのである。
 カール・セーガンはもちろん科学者としてビッグ・バン説を認めるが、そこに自然と超自然との接点を認めようとはしない。彼が神を否定する根拠は、もし神が宇宙を創ったのならその神は誰が創ったのか、ということになり、いわゆる無限後退に陥るではないか、ということのようである。これは確かに、物心のついた子供から大学者にいたるまで、等しく頭を悩ます問題ではある。
 しかし超越的次元というものを認めるのが、そんなに難しいことであろうか。そしてそれが時空を超え、我々を包み込んで存在すると考えることが、そんなに考えにくいことであろうか。我々の知っている存在次元が、ありうる次元のすべてだと考えなければならないだろうか。我々は我々を超える存在の中に包み込まれ「生かされている」のであって、その(次元的)外側に出てみることはできないのである。そう考えることが、なにか科学的情熱に水を差すようなことであろうか。科学の役割は、無限にその超越的創造者に近づく努力をすることだと考えてよいのである。
 おおむね人はそこまで考えずに生きているが、今こうして生きている我々自身の存在の意味(あるいは無意味)のすべてが、その点の解釈にかかっている。そして我々が日常直面しているあらゆる根深い問題、テロや宗教紛争から教育にいたるあらゆる問題の根本的解決が、その一点の解釈にかかっている。

ジェンダー・フリーの論拠

 例えば、カール・セーガンは性(の二分)というものをどう考えているか。唯物論者の彼は徹底したダーウィニストであって、性つまり男女・雌雄の別というものも進化の途上で「発明された」ものという立場を取っている。

 性は二十億年ほど前に発明されたもののようにみえる。それ以前には、生命体の新種はランダムな変異、つまり遺伝の指令の一文字一文字の変化の選択の蓄積によってのみ生ずることができた。進化とは、気の遠くなるほどゆっくりとしたものであったに違いない。性の発明によって、二体の生物がそのDNAのパラグラフ、ページ、本全体を交換し、選択のふるいにかけるべき新種を作り出すことができるようになった。

 これはミリオン・セラーといわれた『宇宙』(Cosmos)の中の文章である。人はこういうところを気にも留めずに読み流すかもしれないが、性にまで及ぶこういうダーウィン的考え方が、いま問題になっている「ジェンダー・フリー」推進論者たちの無意識の前提になっているのである。「性が発明された」と言っていることの意味は、盲目的な自然の勢いで性別というものが生じた、ということであろう。性というものをそのように偶然的なものと解釈するなら、人間の男女の別も、何かの間違いでたまたま生じたものということになり、「ジェンダー・フリー」論者にしてみれば、そんなものに縛られるのはおかしいではないか、ということになるのである。性が進化の途上で発明されたものと言うなら、いったい自然はなぜそんな面倒な繁殖の手続きを「選択」したというのだろう。
 性をそんなふうに解釈することはできない。男女・雌雄の別は、(東洋哲学で言うような)陰陽の原理として初めから宇宙に内在していたと考えざるをえないのである。それはちょうど生命というものが、個々の生命体の現れる以前に、最初から宇宙に内在していたと考えざるをえないのと同じである。そこが自然主義者(唯物論者)と考え方の分かれるところである。目には見えないが確実に存在する宇宙の原理といったものを、自然主義者は想定することができないのである。
 彼らはそう言っても首を傾げるであろうから、もう少し私の考えるところを説明しておきたい。いま仮に、この宇宙で生命体の存在するのは我々の惑星だけだとして、バクテリアから人間にいたるこの地球上のすべての生命体を絶滅させることができたとしよう。私の考えでは、それで生命はなくなるかと言えば、なくならないのである。確かに生命体はなくなったが、生命体とは区別される生命そのものはなくならないのである。生命こそが宇宙の本質であり、宇宙は最初から生命を産み出すこと、そしてその高度化を目指して動いてきたと考えざるをえないからである。
 唯物論に毒される前の西洋では、自然というものを「産み出す自然」(natura naturans)と「産み出された自然」(natura naturata)に分けて考えていた。それが本来の自然な考え方である。「産み出す自然」を「大生命」と呼んでもよい。そういうものは見えないがゆえに存在しないと言い張る人は、よほど想像力の乏しい人である。
 生命を産み出すものは生命でしかない。ただ「産み出す生命」は「産み出された生命」のように形を持たない。アインシュタインがバートランド・ラッセルの哲学を評して言った「形のないものへの恐怖」にとらわれていては、宇宙の実相に接近することはできないのである。

『世界思想』No.344(2004年6月号)

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