NO.16(2004年4月)


曖昧な概念の上に学説は成り立たない
――「自己組織化」という欺瞞――

渡辺 久義    

言葉の欺瞞性

 学問にとって言葉遣いの正確さは命である。言葉の正確さ、その吟味が学問の死命を制する。私は文学を研究する者だが、これは文学作品だろうと文学の研究だろうと科学の記述だろうと、そのことに変わりはない。むろん言葉を使って――つまり数式やCGでなく言葉によって――現実のモデルを作るのに、我々の言語は不正確であり不十分であり、適当な言葉がないという現実に学者は常に遭遇している。
 それでも可能な限り言葉の正確さを期するとすれば、それはどういうことを意味するか。それは言葉の本来の不正確さ、曖昧さ、そしてそういった言葉を遣う自分自身を常に意識するということでなければならない。そういうことに無頓着であるような学説など信用することはできない。無反省のままの言葉がひとり歩きすることによって、現実が置き去りにされるということはよくある。例えば前号でも述べたように、学者は「生命」という言葉をわかり切った言葉であるかのように使うことはできない。それは彼が前提となるいかなる世界観をももっていない証拠であり、学者として無責任である証拠である。
 むろんこれは学問の世界だけのことではない。日常生活でも、最も基本的な言葉の概念を曖昧にしたまま、我々は話を先へ進めることはできない。ところが一般にそういうことが行われている。例えば「心の教育」という音頭をとる人があれば、誰もこれに反対はしない。しかし「心」や「教育」の概念を曖昧なままにしておいて、これを実行するにもしようがない。心の教育はパソコン教育のような技術教育ではないのである。
 私がそんなことを言うと「学者はこれだから困る、心の教育と言えば常識でわかっていることで、ことさら定義など必要のないことだ」といった声が聞こえてきそうである。しかしそうであろうか。その「常識」が定まらないので我々は困っているのではないのか。かの北朝鮮でも、心の教育は幼児の段階から立派に行われているではないか。
 そこで前号に書いた「生命を作る」という話に戻ることになる。心と生命とはよく似たものである。概念としては一応別だが、内容は重なり合うものである。「心の教育」が何を意味するか常識でわかると言う人は、「生命」も同じで、「生命を作る」と言えば常識でわかることだと言うであろうか。
学者が仮にも「生命を作る」などと言うためには、生命とは何かということを徹底的に考えた上で、一応の生命観をもっていなければならないだろう、と私は言った。そして深く生命というものを考えてみるならば、「生命を作る」などということは言えないはずであり、生命についての曖昧な概念の上に、遺伝子についての生半可な(技術レベルの)知識が結びついて、そういう軽はずみなことを言うのであろうという意味のことを言った。

曖昧な「生命」「進化」

 そのような無定見の上に理論らしきものを構築して、何かわかったような気になるという典型が、ダーウィニズム(またネオ・ダーウィニズム)である。そもそもダーウィニズムの生命概念が曖昧である。生命というものの中心に機械作用を見るのだから、それは立派な唯物論だが、唯物論だと言われると否定するようなところがある。「進化」という言葉もきわめて曖昧である。例えば、自然界の不思議を紹介するテレビ番組でも、「何百万年という長い進化の結果としてこういう形になった」というようなことをしょっちゅう言っている。これは「進化」という言葉の曖昧さを利用する進化論者の言い方を真似たものである。
 「進化」を生命の高度化・複雑化という意味に解する限り、進化があったことは確かである。というよりむしろ、ビッグ・バン以来今日までの我々の宇宙のもつ最大の属性が、進化――より大きく生命が目覚める――ということである。しかし宇宙そのものが進化した、あるいは生命世界が進化したとは言えるが、個々の生命体あるいは生命種が進化したという証拠は少なくともないのである。そこをわざと曖昧にすることによって、いわゆる「進化論」は成り立っているとみなければならない。
 以前にも書いたように、時計というもの(のアイデア)が進化するのであって、日時計や水時計が徐々に変形して振子時計や電気時計になるのではない。しかしそういうことを言うと、時計は人間が作るものであり、生命は自然に生まれてくるものであるから、それらを一緒にするのは見当違いだと、進化論者はこれを一蹴しようとするだろう。そこでそのその説明を求めるなら彼らはきっと、人間には意志(心)があるが、宇宙自然界には意志も心もないではないか、と言うであろう。更にそのわけを聞くなら、心は脳を前提とするが、宇宙空間のどこをさがしても脳は見当たらないではないか、という唯物論者特有の悪循環論法に陥るであろう。
 これに対して、それは唯物論者の独断であり、その独断に自分を閉じ込めることではないか、というのがインテリジェント・デザイン論者の主張である。なぜ宇宙に意志を認めることがそんなに不合理なことなのか、と彼らは言うのである。研究が進むほど、生命世界はデザインされたものとしか解釈できなくなるのに、「確かにデザインされたようにみえるが実はそうでない」とか「徐々に変化すればどんなものがどんなものにでも変わりうる」(いずれもドーキンズ)などといった詭弁はやめようではないか、とデザイン論者は言うのである。
 とりわけ「自然選択」などというのは、まさに魔術というべき概念であり、事実この概念の魔法によってすべての進化が起こることになっている。「適者生存」にいたっては全く話にならない同語反復である。こういった言葉を組み合わせて生命世界を説明したことにしようというのは、最初の生命概念が、そんなことで説明されうる程度の生命概念でしかなかったということである。にもかかわらず、それを唯一公認された学説として認め、他の考え方は認めないなどというのは、学問する者として許しがたいことである。唯物論が許容されていた今まではともかく、今からもそういった学界の体制が続くとしたら、それは許せないということである。それは暴力革命やテロ容認理論が許せないのと同じである。これを過激な見解と思う人は、この理論の我々の内面に及ぼす破壊的な効果がどれくらいのものであるか、考えてみられるとよい。
 今、進化や生命の概念とそれを研究する学問が、転換を余儀なくされているという事実からことさら目をそむけて、旧来の唯物論的前提に固執するという態度は、愚かというだけでは済まないであろう。マイケル・デントンは次のように言っている。

 今日、方向づけられた進化の可能性に関して、全体的事情が劇的に変わってきている。第一に、自然法則というものが、十九世紀に考えられたように非情で機械的で生命をもたぬものではなく、今この地上に存在する生命のためにあらかじめ定められたものであるという、あらゆる印象を支持する証拠が出揃い始めている。方向づけられた進化という概念は、従って、生物学以外の世界においても、もはや変則的なものとは言えない。それどころか、それは急速に現れつつある新しい目的論的世界観から、論理的に導き出される見方にほかならない。第二に、現代遺伝学によって明らかにされ、十九世紀や二十世紀初頭には夢見ることもできなかった世界、すなわち遺伝子の世界がある。そしてそれは、進化の全行程が最初からDNAという台本に書き込まれていたのではないかという、比較的詳細で、確からしい推測に根拠を提供する世界なのである。

「自己組織化」仮説

 ところでダーウィニズムのあまりにもおそまつな論法を避ける方法がいくつか提案されている。「自己組織化」(self-organization)というのがその一つである。これは簡単に言えば、物理的宇宙に自己を組織化する、すなわちより高度な、より高い複雑性をもった存在を創り出していく力が本来あり、生命創造も進化もそれによって説明できると主張する理論である。これは、生命がダーウィニズムで説明できるとは思わないが、しかしダーウィニズムの「自然主義」(唯物論)だけは堅持しなければならないと考える人々の、窮余の策としての理論として解釈することができる。
 「自己組織化」とは『混沌からの秩序』を書いたイリヤ・プリゴジンから出た言葉のようである。この本のために序文を書いたアルビン・トフラーが次のように言っている。

 この概念[散逸構造]をめぐる主要な論争のうちの一つは、プリゴジンの次のような強い主張と関係がある。無秩序と混沌の中から「自己組織化」の過程を通して、秩序と組織が「自発的に」生じてくることが実際に可能だと彼は力説する。…プリゴジンと[共著者の]スタンジェールはまた、従来の熱力学の見解をも間接的に非難する。すなわち、少なくとも非平衡の条件下では、エントロピーが秩序や組織などを、したがって生命をも作りうるのであって、破壊するのでないことを示している。

 このノーベル賞学者の受賞理由となった業績の部分については評価すべきなのであろう。ただ、「自己組織化」という過程を通じて「秩序や組織」が「自発的に」生まれ、それが生命をも作りうるとまで主張するところに注目したい。これはダーウィン進化論がそうであったように、人が飛びつき、人をとりこにするような、いわば救世主的な仮説であろう。だから物理学者ポール・デイヴィス(『神の心』の著者)も、少なくとも『宇宙の青写真』を書いた頃はこの考えを取り入れていた(今はどうか知らない)。またエリッヒ・ヤンツという物理学者も『自己組織化する宇宙』という魅力的な本を書いた。

ダーウィニズムと本質は同じ

 しかし、生命論としてこの理論を宣伝する最も代表的な論者は、At Home in the Universe: The Search for the Laws of Self-Organization and Complexity(1995)を書いたスチュアート・カウフマン(Stuart Kauffman)ではなかろうか。
 カウフマンの理論についても、私はもっぱら言葉遣いに注目したいのである。彼は、この理論のポイントは、ダーウィンの偶然の変化と自然選択でなく、自己組織化と自然選択という二つの作用の組み合わせだと言っている。この二つが組み合わされば鬼に金棒であるらしい。「自然選択」と同じく、この「自己組織化」も私には魔術的な概念としか思えない。彼はこんなふうに言う。

 その[自己組織化と自然選択]どちらも単独では十分ではない。生命とその進化は常に、自発的秩序(spontaneous order)と、その秩序に対して働く自然選択の作用の、相互の抱き合いによって可能となった。我々は新しい像を描く必要があるのである。


 胚発生に見られる美しい秩序の大部分は、自己発生的なもの、非常に複雑な統制的ネットワークにふんだんに見られる、驚異的な自己組織化の自然の表現である。我々は深く間違っていたように思われる。厖大で生成的な秩序が、自然に生ずるのである。


 単純な物質系が自発的な秩序を示すことは知られている。水に垂らした油滴は球を作る。雪の結晶は六角形の対称性を示す。新しいことは、自発的秩序の範囲が、我々が考えていたよりもはるかに大きいということである。深い秩序が、大きな複雑な、見たところランダムな系において発見されつつある。私は、この現われ出る秩序が、生命そのものの起源のみならず、現在の生物に見られる秩序の多くの根底にあるものと信じている。

 一見もっともらしい文章だが、読者はまず、この断定的物言いに恐れ入ったという感じを抱かないだろうか。「混沌から秩序が生ずる(ことがある)」というのは多分事実なのであろう。しかし呪文のように何度も繰り返されるその「秩序」(order)とは何であろうか。秩序が生命そのものか、生命の情報であるかのようにこの理論は思い込み、思い込ませたがるが、秩序とはそういうものではなかろう。(生命情報は誰かが書きかつ実行するものでなければならないが、単なる秩序はそのようなものではない。)「混沌(無秩序)から自動的に秩序が生ずる」と言えば、ごく普通には、トランプをシャッフルしているうちに、突然、数字や記号に順序が生ずるようなことを言うであろう。現にプリゴジンの発見したのはそういう類のものであったと思われる。
 しかし、いかにそれが「考えていたよりはるかに範囲の大きい」ものであり、秩序が止めどもなく湧いてくるものであろうと、それが生命を生み出すことにはつながらない。その間にはほとんど無限の距離があるであろう。しかも、それが「自発的」「自動的」であると、これも同じ言葉が何度も繰り返される。「自発的に」とは「意志も目的ももたぬ物理現象として勝手に」という意味であろうから、この理論はあくまでダーウィニズムと同じく、生命の中心に物理原理を見ようとする強い意志をもった理論である。ダーウィニズムよりはもっともらしく見えるかもしれないが、ダーウィニズムを乗り越える仮説ではないのである。

『世界思想』No.342(2004年4月号)

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