NO.12(2003年12月)


生命に合わせて調整されている自然法則(2)
――一大交響曲としての宇宙――

渡辺 久義   

コズミック・ダンス

 今から二十数年前、「ニュー・サイエンス」といわれるものが一世を風靡した頃、フリチョフ・カプラの『タオ自然学』という本が話題になったことがある。この本は「コズミック・ダンス」と著者が呼ぶ著者自身の神秘体験をもとにして、最先端の科学と東洋的な神秘主義の境界を探ろうとするものであった。その当時人々は、私などもそうだが、科学者が「コズミック・ダンス」などといえば、やや怪しげ感じがしたであろう。
 今、その「コズミック・ダンス」が神秘色をなくしつつあると言ってもよいであろう。少なくとも前回から紹介しつつあるマイケル・デントンの『予定された自然―生物学の法則は宇宙の目的を開示する』(Nature's Destiny: How the Laws of Biology Reveal Purpose in the Universe)は、「コズミック・ダンス」の、ただし神秘主義とは無縁の「コズミック・ダンス」――宇宙的調和――の話であると言ってよい。私はこれを二度読んだが、最終章の「奇妙な一致(coincidence)の長い鎖」を読むあたりで、あたかも壮大な交響曲を聴き終えるかのような不思議な感動に包まれたことを告白しておきたい。「不思議」というのは、(当然のことだが)この本が芸術的効果など全く目論んでいないからである。ただ宇宙が一大交響曲であるという事実が、科学的証拠を次々と積み重ねることによって、圧倒的に明らかになってくるということなのである。
 宇宙を言い表す言葉として、今まで科学者があまり使わなかったcosmosという言葉がこの本では多用されているのも自然のことである。universeは「一体としての森羅万象」というほどの意味だが、cosmosは「一大調和体としての宇宙」という意味である(spaceは単なる宇宙空間)。
むろんこの本は、著者の広くかつ深い科学的知識と、その知識全体の意味を問い直して全体を再構築する哲学者的な構成力と、それに少なからず文章力にもよるのだから、ある意味では著者の芸術的才能に負うものである。余計なことを言うようだが、私はこういう本の書ける人が、さして目立つこともなく、ゴロゴロいるということが一つの文化あるいは国家の底力ではないかと思う。その観点からすれば、僥倖によるノーベル賞などというものはあまり大きな意味をもたない。
 ともあれこの本に象徴されるように、いま科学は、目的論的・デザイン論的世界観の確認へと向かう「容赦ない進歩」(マイケル・ベーエ)を示しつつあることは確かのようである。つい先頃まで、神秘家や宗教家や芸術家の感覚や直観でしかなかった「コズミック・ダンス」ともいうべきものが、今や科学者によって否も応もなく事実として立証されつつあるのだと考えてよかろう。久しく求められていた科学と宗教と芸術の統一の兆しが、やっと見えてきたと言ってもよいであろう。
 ついでながら「科学・宗教・芸術の統一理論を求めて」というのは私の旧著『意識の再編』の副題だが、そのような立場に立って科学というものに相対したときに――例えば学校の理科の授業においても、そのような立場に立って教え学ぶときに――科学を胸の高鳴るような、あるいは胸の熱くなるような、生きた知識として扱うことができるだろう。
 以下何回かにわたって、主として引用と、私の力量の及ぶかぎりの要約によって、このデントンの大著の概要を紹介したいと思う。十分に内容を伝えられないところは、読者の賢察によって補っていただくよりほかはない。

一連の不思議な一致

 まず著者の基本的な姿勢の現れている文章を引用したい。我田引水のようだが、私が新著『善く生きる』の中で――ただし科学者の立場ではなく――一貫してとっている立場に共通するものなので、これをどうしても最初に引いておきたいのである。
 デントンはまず「およそ目的論的議論の強みは基本的に累積的ということである。それはどんな単独の証拠にあるのでもなく、一連の不思議な一致の全体性に、そしてそれらが否応なく一つの結論の方向を指し示すところにあるのである」と述べた後で、次のように言っている。

 理論や世界観は最もしばしば、それらがすべてを完全に説明できるからではなくて、それらがいかなる他の見方よりも多くを説明してくれるがゆえに、受け入れられるのだということに注意すべきである。進化が十九世紀において受け入れられたのは、それがすべてを完全に説明したからでなく、他のどんな理論よりも事実をうまく説明できたからである。同様に、ここで提案されている目的論的モデルも、現在行われているいかなる対抗理論よりも、はるかに辻褄が合い、宇宙についてはるかに多くを説明できるからである。宇宙が、生命と人間をその最終目的とするかけがえのない一つの全体であるという見方は、我々の今手にしているすべての科学的知識を説明し、これに光を与える。それは恒星の内部での複雑な炭素の合成に、物理学の常数に、水の特性に、宇宙の元素の豊富さに、宇宙全体に有機物質が存在することに、地球と火星という隣接した二つの惑星が非常に似ているという事実に、原子を作っていく過程がウラニウムまで続いているということに、説明の光を与えるものである。他のいかなる世界観もこれに遠くおよばない。他のいかなる説明も、すべての事実をこれほどに説明はできない(強調原文)。

 宇宙創造の初めから、すべてが、我々の知っているような生命を目指して働いてきたという仮説に立つこの本は、西暦一〇五四年七月四日、中国やホピ・インディアンの天文学者によって観察されたという記録のある、超新星の爆発の話から始まっている。そのような宇宙の出来事が厳密な正確さで起こっていなければ、生命の基本材料となる元素も生命の存在できる惑星も、できていなかったはずだということである。

 これら昔の天文学者たちと彼らが観察した新星の間の宿命的な関係には、単にそのような爆発が生命を作る原子を宇宙にまき散らし、惑星の誕生の原因となった撹乱運動を始動させたという事実以上のことが含まれている。もしその超新星が地球にもう少し近かったら、それは地球を致命的な放射作用に浸して生命を根絶させたであろうし、もしそれが地球に非常に近かったら、地球は火の玉に呑み込まれて蒸発したであろう。爆発する星の頻度と分布もまた、従って、決定的に重要なパラメーターである。超新星は生命にとって絶対不可欠のものである――それがなければ、生命を組み立てる化学的ブロックが、地球のような惑星の表面に蓄積されることはなかったであろう。しかしそれらはまた、いかなる近接する太陽系の生命をもすべて根絶するがゆえに、限りなく破壊的な現象でもある。・・・
 現在の物理学と天文学から浮かび上がってきた像は、生命のための化学物質の形成と、生命や進化を数百万年にわたって支えることのできる惑星系は、もし宇宙の全体的構造と自然法則のすべてが、ほとんど正確に、現に今ある通りのものであったときにのみ可能だということを示唆している。

 天文学者のフレッド・ホイルが、そのような事実について述べた言葉が引用されている――「このような事実を常識的に解釈すれば、ある超=知力が化学や生物学のみならず物理学にも手を出した(monkeyed)ということ、自然界には盲目の力といえるようなものは何もないらしいということである」。

水の不思議

 そこで本書は、生命とは切っても切れない物質である水の分析から始まる。この水というありふれたものこそ「地球上の生命のための液体の媒体として、他に代わるもののない理想的な性質をもったものであるが、それも、その知られている物理的・化学的特質の、一つとか多くの、というのでなく、一つ一つすべての点においてそうなのである」(強調著者)。ということは何を意味するかと言えば、水の創造というものが生命創造の一環だということである。まず水というものが生命と無関係に存在し、しかるのちにこれを利用する形で生命が現れたのではない、ということである。
 しかも水はこの地球に合わせて与えられているのであって、他の地球条件から孤立させて考えることはできない。

 例えば岩石の風化とその結果生ずるものを考えてみよう。それは生命が必要とする鉱物を、川を通じて海へと、そして究極的に水世界全体へ分配する。岩石の割れ目の中へとそれを吸い上げるのは、水のもつ高い表面張力である。岩石に割れ目を作るのは、凍るときに変則的に膨張する水の性質によってであり、これが割れ目を増やしながら風化を促進し、いろんな元素を濾し出すのに利用することのできる、水の溶解作用のための表面積を増やしていくのである。更にその上・・・

 こういうことを一つや二つ指摘されるなら「なるほどうまくできている」と言うだけで済むかもしれないが、このような例があれもこれもと積み重なれば、水は最初からこの惑星のような惑星の生命に合わせて(微)調整されていると考えざるをえなくなるのである。
 まず、地球上での水の存在とその(利用可能な)液体状態での維持そのものが、水の特性の絶妙なバランスの上に成り立っていて、手品を見るようである。

 また水のいろいろな熱に関する特性が協力し合って、地球表面上に大量の水を保持している仕組みを考えてみよう。第一に、水が冷えていくときは、その高い熱保持率が冷却の進みを遅らせる。それが摂氏4度以下になると、最も冷えた水が表面に上がってきて、そこに断熱効果をもつブランケットを形成することによって、更なる熱の損失を防ぐ。最後には表面は凍るが、それは高い融解潜熱のためにかなりの量の熱を放出し、温度が更に下がるのを遅らせる。いったん氷ができると、それは水より軽いために表面にとどまり、水の熱伝導性が弱いために、下の水が更に冷えることを妨げる。それより先の氷結は氷と水の向き合った面で起きるため、(氷結によって)放出される潜熱は、氷の熱伝導が弱いために氷の表面下に封じ込められ、そのことによって下の水を温め、更なる冷却を遅らせることになる。その結果、海上の空気がどんなに冷たくても、氷の層は数メートル以上に厚くなることはない。・・・

生命のために機能

 こういったことは、単独に見ればどうということもない水の特性が、よく見れば協力して生命のために機能していることを示す、水の一側面にすぎない。水は液体であるのが当たり前だという前に、この地球を生命の棲家として創った者の立場に立ってみなければならないということである。水がほどよく液体として保たれるためには、水がとらねばならない特性があり、これが箇条書きにされている――すなわち「高い熱保持率」「(ほどよい)熱伝導率」「凍結の際の膨張」「摂氏4度以下での膨張」「氷の低い熱伝導性」「氷結時の高い潜熱」「比較的高い氷の粘性」。なかんずく不思議なのは、水が摂氏4度で最も収縮し重くなり、かつ凍るときに膨張するという、他の物質に例を見ない「変則的な」性質――神の絶妙な細工――ではあるまいか。もしこれがなければ、海も湖も底から凍り始め、ほとんど年中凍結したままであろう。
 その同じ水の特性のセットが生命のために働いているところは、むろんそれだけではない。例えば、人はそれに慣れているために普通は気付かないが、生命や生命環境の温度調節のために、これ以上に理想的な物質はないのだという。

 摂氏零度から五〇度の環境温度での、炭素をベースにした大型の陸上生物の温度調節のためには、水の適合性に匹敵する他のいかなる液体も知られていない。アンモニアとか液化ナトリウムのように水の熱特性のいくつかを示すものもあるが、水のように相互に適合する一連の特性を示すものはない。例えば、ある温度で液化ナトリウムは水よりも高い気化熱を示すが、その熱伝導性は水の何倍もあって、その媒体をベースにした仮説的生命体が環境に耐えて恒常温度を保つには高すぎるのである。・・・
 もし水がなければ、それは発明されなければならないだろう。もし宇宙のどこかにもう一つの地球があって、我々に似た生命がいるとしたら、そこにはやはり水があり、海も川も雲も雨もあり、嵐も滝も氷山もあることだろう。そしてその海岸には波が打ち寄せているだろう。

 宇宙が人間を中心とした一大交響曲であるとすれば、その中で、水は水のパートの交響曲を奏でていると言えそうである。いずれにせよ唯物論的進化論の、自然をバラバラの勝手な要素の集合としてみるような自然観は、過去のものだと言わなければならない。

『世界思想』No.338(2003年12月号)

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