NO.8(2003年8月)


ダーウィニズムの終焉(1)
――「進化という事実」はあったのか――

渡辺 久義   

生き方の問題

 この表題を見て目を丸くする人、首をかしげる人、また日本にもたくさんおられる専門的ダーウィニストで、激怒する人や頭から軽蔑して取り合わぬ人々がおられたら、フィリップ・E・ジョンソン(Phillip E. Johnson)の著作のうち特に『裁かれるダーウィン』(Darwin on Trial, 1993, InterVarsity Press)という該博な知識と論争経験に基づく、条理を尽くしたダーウィン進化論論駁の書を読んでみられるとよいと思う。そして反論ができるかどうか真剣に考えてみられるとよい。(ただし残念ながら今のところ翻訳はない)
 また進化とか創造とかはどうでもよいこと、自分には関係がない、などと思っておられる人があったら、そういう人も読んでみるべきである。これは自分自身が何者かという問題であり、生き方や倫理そして文化そのものの問題であって、関係がない人など一人も存在しない。
なぜダーウィニズムが我々大多数の意識を深部まで支配し、これを振り払うことも、疑ってみることさえできなくなっているかという問題は、社会心理学的・科学哲学的・思想史的な大きな問題であるが、今その根がどこにあるのか、ようやくそれが明らかにされつつあるのである。
ダーウィニズムを自明の真理としてその上に研究業績を築こうとしている専門家には相済まぬことであるが、はっきり言って我々は、ダーウィニズムが自明の真理であるかのような思想を世の中に浸透させようとする勢力とは戦わなければならない。中途半端に妥協などできない、仲良く宗教と科学が「住み分ける」ことなどできないのである。ジョンソンの言うとおり「我々の心は二人の主人に仕えることはできない」のである。
 そういう目で周囲を見回すなら、進化論者の用意周到な防衛的戦略ともいうべきものに、我々はいたるところで出くわすであろう。前号で論じた教科書がそうであり、(科学者の監修する)子供の絵本がそうであり、次のような「科学の基礎知識国際調査」のテスト問題がそうである。(これは中村忠一氏による教育改革に関する研究論文――「世界平和研究」二〇〇二、通巻一五四号――から拝借したものであるが、中村氏がこの問題を論じているわけではない)
@ 大陸は何万年もかけて移動している。
A 現在の人類は原始的な動物種から進化した。
B 地球の中心部は非常に高温である。
C 我々が呼吸に使う酸素は植物から作られた。
D すべての放射能は人工的に作られたものだ。
E ごく初期の人類は恐竜と同時代に生きていた。
F 電子の大きさは原始の大きさより小さい。
G レーザーは音波を集中することで得られる。
H 男か女になるかを決めるのは父親の遺伝子だ。
I 抗生物質はバクテリア同様、ウイルスも殺す。
 問題はAであり、もちろんこれは〇を要求している。これを「常識」として、あえて他の問題の中にもぐりこませなければならない理由は何か。少なくともこの問題の出題者は、進化という問題に関して今も論争がつづいていることは知っているはずである。出題者(たち)の意図は、「進化という事実」に疑問をもつような者は、大陸移動の事実を知らない者と同様、非常識だということであろう。彼らはこの問題に答えさせることに、気分の悪さを感ずることは全くなかったものとみえる。

科学離れの一因

 こういう「常識」を試される学生のかなり多くの者は、釈然としないながらも出題者の意図を汲んで〇をつけるであろう。これがかりに理系大学院の入試問題であったとして、私がこれを受けたとしたら、私もきっと〇をつけるであろう。なぜなら私が科学者社会に仲間入りし、さらに出世するためには、信念に反してでも科学者仲間の「常識」に従わなければならないからである。これはちょうど若い歴史専攻志望の学生が、唯物史観に忠誠を誓うかどうか試されているようなものである。つまり踏絵である。更にたとえるならば、中国へ行ってある程度活動させてもらうためには、中国の政治体制に従わざるをえないようなものである。こういう戦略によって、「進化は科学的事実」という「常識」はますます社会にその地歩を固めるであろう。
 もっともこのAの文章は短すぎて、どうとも解釈できるという人があるかもしれない。しかしこれはフィリップ・ジョンソンがよく言うように、「進化」という概念がもともと曖昧で、進化論者は突っ込まれるとこれを利用して巧妙に逃げるのであって、おそらくここでもこれ以上の詳しい説明はできないのである。だがこれは、オーソドックスなダーウィン進化論だと解釈してよいだろう。
 この文章が意味するのは「現在の人類は原始的な動物種、つまり爬虫類さらにはバクテリアのようなものが、我々の知っている繁殖過程を通じて、自然の物理的力(偶然の変異と自然選択)のみを創造力として、今まで存在しなかった高度に複雑な器官やしゅ種を次々に創り出しながら現在に至った結果としての産物、つまり原始的な動物種から進化してきた彼らの子孫である」ということであろう。
つまりこのテストには、最低限の常識をそなえた現代人なら、人間を含めたすべての生命体は、物質から生まれた生命のたねから、物的力によって創造されたものであることを当然知っているべきだ、というメッセージが込められている。
 因みにこの問題の正答は、@〇 A〇 B〇 C〇 D× E× F〇 G× H〇 I×、ということになっていて、日本人成人の成績は先進一四カ国の中で一二位とひどく悪いのだそうである。しかしそんな成績を気にすることより、このテストの背後にあるものを見抜く眼力をもった日本人が何人いたか、ということの方が重要であろう。北京政府の出題する「常識」問題に高得点をもらって、手放しで喜ぶ人が何人いるだろうか。
 Aには〇も×もつけられない、ただ〇とする根拠はほとんどない、というのが正解であろう。しかし、Aの命題は絶対的な真理でなければならず、証拠の有無には左右されない、と考える一部の有力な人たちがいるのである。そしてそれを否定する、あるいは疑うような思想や愚かな人間はこの世から一掃しなければならない、と彼らは考えるのである。ドーキンズの過激な発言がそれを物語る―「進化ということを信じないと主張する人がいたら、その人は無知か、愚鈍か、正気でないか(あるいは邪悪と言いたいところだが、そこまでは言わないでおこう)いずれかであると言って差し支えない。」だがジョンソンが言うように、ダーウィニストの信念の堅さは、最初の断定的仮定から引き出される「論理的必然」からくるものであって、立証された事実からくるものではないのである。
 しかし、そういう人たちによって牛耳られ、大多数の科学者がおのれの学者としての立場(私利私欲とは言わない)を守るためにそれに従うのが科学の世界であるとしたら、私は「科学離れ」という現象が起こるのもやむをえないと思う。これは単なる理数科嫌いということではないと思う。かつて宗教的ドグマに反発して人々が科学の世界に入っていったように、今度は逆に、科学的体制世界のドグマに反発して、あるいは不信感をもって、人々がそこから離れていくということは考えられることである。ジョンソンのような極めて高い知性をもった多数の人々が創造論を支持していることを、薄々でも知っている若い学生があの科学の「常識」問題に接したときに、彼が科学世界に対して漠然たる不信感を抱くようになったとしてもおかしくはない。

教えてはならないこと

 健全な科学が要求するのはむろん、仮説とその実証である。ダーウィニズムが「現在の人類は原始的な動物種から進化した」と主張するためには、疑いようのない化石による証拠とか、実験室における実験によって(単なる変種を作ることでなく)進化の事実が突き止められることが要求される。しかしそういうことは何も起こっていないのである。
 ジョンソンによって面白いエピソードが紹介されている。一九八一年、イギリスの自然史博物館の古参の古生物学者コリン・パタソンがアメリカの自然史博物館で行った講演である。パタソンは、進化についての確実な知識と思われていることについて疑問に思っていたことを専門家の聴衆に尋ねてみた――

 「皆さん方が進化について知っておられることがあったら教えていただけますか、真実であるたった一つのことでも。」私はこの質問を自然史フィールド博物館の地質学スタッフに問いかけてみた。私の得た答えはただ沈黙であった。私はこの同じ問いを、進化論者のたいへん権威ある団体である、シカゴ大学の進化形態学セミナーの面々に発してみた。そこでも私の得たのは長い沈黙であった。するとやっとひとりの人がこう言った、「私は一つのことを知っている。それはこのことを高校で教えてはいけないということだ。」

化石研究者の苦渋

 ジョンソンはパタソンの論点をこう要約している――「ダーウィン以前の創造論に対する共通の反論は、創造のメカニズムについては誰も何も言えないではないか、ということであった。創造論者はただ創造の「事実」を指摘するだけで、その方法については何も知らないことを認めた。しかし今、ダーウィンの自然選択説は砲火にさらされ、科学者はもはやその一般的有効性に確信をもてなくなった。進化論者は、事実を指摘するだけでその方法については説明することができないという点で、ますます彼らの話ぶりはかつての創造論者に似てきた、ということである。」
 化石によってダーウィン説を立証することはどうしてもできないという事実は、まるで中国政府が新型肺炎SARSの存在を隠したように、一般の目から隠されてきたようである。これは古生物学の「業界秘密」(スティーヴン・ジェイ・グールド)であり、スティーヴン・スタンレーによれば、漸次進化に対する古生物学者の疑いは長い間「隠蔽されてきた」のだという。古生物学者のナイルズ・エルドレッジは、告白してこう言っている、「我々古生物学者は、一方でそういうことはないと知りながら、生命の歴史はこのストーリー(漸進的な適応による変化)を支持していると言い続けてきた。」

 次々と新しい世代から、自分の発掘する化石の中に進化による変化の実例を突き止めようと張り切る、若い古生物学者が現れているようである。彼らがいつも捜し求めてきた変化とは、もちろん徐々に進歩していく類のものである。ほとんどの場合、彼らの努力は報われることはなかった。すなわち彼らの化石は、予想していたパタンを示すことなく、ほとんど変化なしに同じ状態を保つようにみえるのである。…この顕著な保守的傾向は、進化的変化を見出そうと躍起になっている古生物学者には、何の進化も起こっていないことを示すように見えた。したがって、漸進的な進化による変化の代わりに保守的な持続を論証する研究は失敗とみなされ、ほとんどそれらは発表されることさえないのである。ほんどの古生物学者は、安定すなわち我々がステーシス(平衡状態)と呼ぶ無変化の状態を知っている。…しかし進化そのものが関心事である以上、古生物学者たちはいつもこのステーシスを、漸次進化的変化の予言を反証するものとしてみるのでなく、「見るべき結果なし」としてきたのである。化石記録におけるギャップは、(今日に至るまで)なぜ漸次進化を示す例がこれほど見つからないかの主たる理由として、持ち出され続けているのである。

にせ頭蓋骨事件の悲喜劇

 エルドレッジによれば、更に問題を複雑にしているのは若い学徒の学位取得の問題だという。学位は実際上、徒弟としての資格をみるものである。建前上は候補者の新しい研究と独創性を奨励すると言いながらも、新進にかかる無言の圧力を、私が先に「常識問題」Aには信念に逆らってマルをつけると言ったように、無視するわけにいかないのである。
 そこから思わぬ事件が起こる。絶対的なダーウィン説から、サルと人間をつなぐ多くの中間種(合の子)が存在するはずだという帰結が導かれ、そこからその生物はこれこれの格好をした頭をもっているはずだ、という予言的推定がなされ、その予言にぴったり合うような頭蓋骨が発見されて世界は沸いた。これが一九一二年、英国サセックス州のピルトダウンで発見された「ピルトダウン人」である。ところがそれは四〇年後の一九五三年、人間の頭蓋骨にオランウータンの顎を巧妙にくっつけた偽物であることが証明された。ダーウィン説を無謬とする信仰と、それを土台とする古生物学者の功名心が結びついて世界を欺いた悲喜劇というべきものである。

『世界思想』No.334(2003年8月号)

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