NO.7(2003年7月)


科学か神話か
――恥さらしな進化論教育――

渡辺 久義   

進化論は裸の王様

 人間は進化の過程で生じた偶然の産物ではない、無目的の存在ではないという、たったそれだけのことが人々の意識の中に根付くならば、それが倫理道徳の根拠になるはずだから、昨今の日本ばかりでなく、世界の先進国全体の抱える道徳的退廃、無気力、利己主義の問題は解決されるだろうということに、納得する人々は多いであろう。例えば、本誌前号の真行寺高志氏による連載記事にあるような、エスカレートする児童虐待も家庭崩壊も、援助交際も性的暴走も歯止めがかけられるはずだ、と考えて歯ぎしりする人々は多いはずである。
 更にいえば、今問題となっている「ジェンダー・フリー」などという歪んだフェミニズム思想も、元を尋ねれば、男女の別などというものは進化の過程で気まぐれに生じたオス・メスに過ぎない、といった浅はかな進化論を背景にしていることは確かだから、これもそうではないのだということを、この運動の扇動者たちに納得させることができるならば、そういう思想は消えるはずだということ、これも容易に理解されるであろう。
 ところが残念ながら、と多くの人は思っているのではなかろうか、ダーウィンの進化論はすでに確立された科学的事実であって、今更これに異を唱えることなどできないのではないか。殊に近年は、ネオ・ダーウィニズムといって、素人には手も足も出ない分子や遺伝子のレベルで研究が進み、立派に実証もされているのであろうから、そういうことに疑問をさしはさむ余地などないのではないか、と多くの人は思っているであろう。
 しかしどの専門分野でも、我々の予想していたようなことは全く起こっていないのである。あたかもそれが実証済みであるかのように思わせていて、実はそんなことは全くない。そのことを教えてくれるのが、インテリジェント・デザイン派の科学者たちである。彼らは、王様が裸であることを初めて堂々と論じている人たちだと言ってよい。科学の世界に裸の王様などというものがあって、それを指摘するのにはかなりの勇気がいるのだ、などと言えば我々は驚かざるをえない。しかし「進化」に関する限りそういうことが現にあるのだということ、またその内情やからくりについてまで、我々にわかりやすく解説してくれたのは、彼らの功績といってよい。

間違いだらけの教科書

 ジョナサン・ウェルズ(Jonathan Wells)の『進化の図像−科学か神話か?』(Icons of Evolution: Science or Myth?)は、そのあたりの事情を詳細に論じた、告発の書といってもよいものであるが、翻訳がないので、今この本の内容のおよその説明をしてみようと思う。
 ウェルズ(のみならずデザイン派の科学者たち)が告発するのは、間違いであることがすでに証明されている事柄を「ダーウィン説を証拠立てるもの」として、執拗に教科書に載せ続けることの不当さである。彼は、学問は自由であって、どんな奇説を唱えることも旧説を墨守することも自由だという。けれどもそれを教科書に取り入れるということになれば、話は別だというのである。(これは「ジェンダー・フリー」思想についても同じことが言える。自然に存在する男女性差を差別として糾弾するのは自由である。しかしこれを低学年の教育に取り入れるとなれば話は別なのである。そしてこの両者は明らかにつながっていて、近年の陰険な文化闘争――魂の奪い合いとも言うべきもの――の一面を露呈している。このことについては稿を改めたい。)
 アメリカの高校・大学の生物学の教科書に登場する、事実を歪めた記述として、ウェルズが巻末に箇条書きにして「警告」している項目をあげてみよう(わが国の教科書もほぼ同じではないだろうか)。
              
一、「ミラー‐ユーリの実験」として知られているものは、おそらく地球初期の大気の状態を再現していない。それは生命の基本物質の起源を実証するものではない。 
二、ダーウィンのいわゆる系統樹は、「カンブリア爆発」(カンブリア紀に多様な生命体がいちどきに出現したこと)の化石記録と合わない。分子上の証拠も、単純な枝分かれする樹のような考え方を支持しない。
三、もし「相同」(例えば、馬の前後肢と人間の手足との形態上の類似のこと)ということを共通の先祖からくる相似性と定義するならば、これを共通の先祖をもつことの証拠には使えない。その原因となるものが何であれ、同じ遺伝子ではない。
四、(我々の教科書にもあり、「個体発生は系統発生を繰り返す」と教えられた)あのヘッケルの脊椎動物の胚の比較図は、実際以上に似せて描かれている。脊椎動物の胚(胎児)はその最も早い段階で最もよく似ているというのも嘘である。 
五、始祖鳥はおそらく現在の鳥の先祖ではない。それ自身の先祖についても定説はなく、今は(恐竜と鳥類をつなぐ)別のリンクが求められている。
 六、(英国で、汚染による環境変化によって「自然選択」が起こるというので有名になった)peppered moth(オオシモフリエダシャク)という蛾は、自然の状態では樹の幹にはとまらない。樹の幹にとまっている写真はつくられたニセモノである。ケトルウェルの実験は今、疑いの目で見られている。
 七、ガラパゴス・フィンチと呼ばれる(少しずつ違った何種類かの)鳥は、ダーウィンに進化のアイデアを思い付かせたものではない。また、自然選択によるとみられる彼らのくちばしの長さの変動は、観察されうる実質の変化をもたらしはしない。
 八、四枚翅のfruit fly(ミバエ)は人工的にしか生まれないし、彼らの余分の翅は筋肉を欠いている。これらの不具にされた変種は進化の材料には全くならない。
 九、馬の化石による証拠は、進化が方向を持たないという主張を正当づけはしない。そういう主張は経験的科学でなく唯物論哲学に基づいたものである。
 一〇、人間の起源に関する諸説は主観的で定まっておらず、証拠に基づいたものではない。すべて「先祖」の図として描かれるものは仮説である。(ウェルズは「進化のイコン」の最たるものとして、サルが少しずつ立ち上がって人間になっていく図柄をこの本の表紙に使っている。)
              
これらの項目はすべて、本文で詳しく説明されている問題の結論の要約であるから十分その意を伝えていない。これだけでは一方的で信じられないという人は当然あるだろう。専門家はむしろウェルズに反論するぐらいのつもりで、一つひとつについて偏見抜きで公正な調査をされてみるのがよいのではないかと思う。そんなことをするつもりのない私が、そういうことを言うのは無責任のようであるが、私はこの本の内容や他の文献による状況証拠から、著者の言うとおりであろうと判断する。

実は偏向イデオロギー

 教科書というものはほぼ神聖に近い無謬のものである、という頭が我々にはある。現にそうあるべきで、だからこそ歴史教科書などは一字一句にこだわって、そういうものに少しでも近づけようとするのである。では、事実を歪めたり誇張してまで上記のような項目を、生物の教科書に繰り返し載せねばならない理由は何か。またこれを咎める者が今までなかったのはなぜか。ウェルズによれば、専門家は実は、たいてい上記の事柄について本当のことを知っているのだという。にもかかわらず教科書には、昔から同じことが書かれつづけているのだという。(中には、権威とされる教科書ライターで、指摘されるまで真実を知らなかったことを告白した例もあるようである。)
 この理不尽がなぜ通るのかといえば、それはただ一つ、ダーウィン進化論という領域が神聖にして侵すべからざるものであるという理由による。むろん、表向きと陰とでは違うのであろう。陰で、ダーウィニズムに疑問を投げかける科学者は少なくないであろう。しかし教科書は、公的な学界と並んで表向きのものである。公的な学界でダーウィニズムを批判したりすれば「クリエーショニスト」と呼ばれ、「クリエーショニスト」と呼ばれるということは、科学者としての資格を疑われるということである(これについてもいろんな面白いエピソードが紹介されている)。教科書についても同じことで、若い学生に対しては科学的精神を叩き込まねばならない、という大義名分からくる進化論教育なのであり、これには誰も何も言えないということである。
 しかし果たしてダーウィニズムが科学なのか、科学的精神を具現するものなのかといえば、本音として「イエス」と堂々と答える人は少ないであろう。ただ公的にそういうことになっているのである。問題はダーウィニズムに限ったことではない、唯物論的世界観を前提とする研究のみが、科学すなわち真理の追究の方法として認められ、それ以外の前提に立つ研究は認めない、というのが科学の世界である。そういう理不尽があってよいものだろうか、という根本的な問いかけを持って台頭してきたのが「インテリジェント・デザイン」派の科学者・哲学者たちである。彼らは、科学を自称するダーウィニズムは科学でなく、時代遅れの唯物論に固執し、これを人にも認めさせようとする人々がしがみつくイデオロギーにすぎない、ということはっきり主張する。

古びた神話

 有名な教科書であるらしいダグラス・フトゥイマ(Douglas Futuyma)の『進化生物学』(Evolutionary Biology)には次のように書かれているという。

 ランダムな無目的の変化が、盲目的な無目的な自然選択によって作用を受けるというダーウィンの理論は、「なぜ」という問いから始まるほとんどすべての疑問に、革命的な新しい答えを提供した。多様な生物の存在と特徴に対するこの純粋に機械論的・唯物論的な説明のもつ深遠で、ひどく不安な意味合いは、人間の振舞いを除いて、この自然界のどこにも、いかなるデザインも目的も目標も考える必要がなく、またその証拠もないということである。…このダーウィンの進化論に引きつづいて、マルクスの歴史と社会についての唯物理論(たとえそれが不十分で間違っていようと)と、我々が意のままにすることができない力に人間行動の原因をみるフロイト理論が出たことで、西洋思想の唯物論と機械論の決定的な基盤が築かれた。(強調は原文)

 これについてウェルズはこう言っている、「明らかに生物学の学生たちは、経験的科学のよそおいを凝らした唯物論哲学を教え込まれているのである。唯物論哲学をどう考えようと、これは証拠からそれを引き出しているのではなくて、証拠(と彼らの考えるもの)に自分の哲学を押し付けているのは明らかである。」これはわが国の左翼偏向教科書と事情がよく似ているが、経験的事実の歪曲であるだけに、こちらの方がたちが悪いであろう。
 ガラパゴス・フィンチのくちばしの長さの変動を「種の起源」の好例として使おうとする「ナショナル・アカデミー・オブ・サイエンセズ」発行の一九九九年版ブックレットには、こう書かれているという――「(グランツ夫妻とその仲間は)この島々でたった一年でも旱魃がつづけば、フィンチに進化的変化が起こりうること、そしてもしこの島々で十年に一度ずつ旱魃があれば、わずか二百年ほどでフィンチの新種が誕生するかもしれないことを示した。」そしてこのブックレットには、読者を混乱させないように、旱魃が終われば自然選択の効果は逆転して元に戻るという都合の悪い事実は、伏せられているのだという。言語道断、とはまさにこういうことではないか。
 ウェルズはこれについてこう言っている、「ちょうど、一九九八年には株価が五%上がったから二十年たてば倍になるはずだと言っておきながら、一九九九年には五%下がったことを伏せておく株屋のように、このブックレットは証拠の肝心な部分を隠して公衆を誤った方へ導くのである。」さらに、法学者でダーウィン批判の先頭に立つフィリップ・E・ジョンソンの言葉が引かれている――「わが国の主導的科学者たちが、株屋なら牢屋に入らなければならないような類いの不正を犯すとしら、面倒なことになるのは分かるはずだ。」
 「いやしくも彼らが科学者である以上、これを純粋なフロード詐欺だとは言えないだろうが」とウェルズは言っている、「それは意識的な詐欺と無意識の自己欺瞞の中間的なものであろう。」ただ一つ確かなのは、それほどまでにダーウィニストたちが自分の立場(科学の唯物論的前提)を明け渡すまいと必死になっていることである。これを神と悪魔の、必死の魂の奪い合いと考えれば合点がいくであろう。
 彼らは口をそろえてダーウィン説には「圧倒的な証拠」があるのだと言う。「もしそのような圧倒的な証拠があるのならば」とウェルズは言う、「なぜ我々の生物学教科書や科学雑誌やテレビの自然ドキュメンタリーが、相も変わらず同じ古びた神話を繰り返し繰り返し用いるのであろうか。」
同じ古びた神話とは、先にあげた十ばかりの項目を指すのであろう。ダーウィン主義者の苦衷を察すべきである。

『世界思想』No.333(2003年7月号)

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