NO.6(2003年6月)


文化大革命としてのデザイン理論

渡辺 久義   

宇宙の青写真

 物理学者ポール・デイヴィス(Paul Davies)の『宇宙の青写真』(The Cosmic Blueprint, 1989) という本のあることを知って興奮し、早速これを縮約して大学用の英語教科書を私が作ったのは一九九五年のことであったから、これはまだ科学者を中心とするデザイン論者二百名がロサンゼルスの一堂に会して、いわば旗揚げを行う少し前のことであった。
 「宇宙の青写真」とは「宇宙のデザイン」ということである。ただこの本はまだ、機械論で宇宙の生成を説明することはできない、何らかのpredisposition(予定方向、予定傾向)のようなものを想定せざるをえない、という内容のもので、デザイン論者の言う、デザインを自然界の一つの要因として認めよ、という積極的なものではなかった。
 それが一つの科学理論として提唱されうるためには、やはりマイケル・ベーエのような生化学の立場から、実証的・数量的にデザインの最小単位(それ以上に分割できないデザインのセット)を取り出してみせて、ダーウィニズムの盲目的漸次進化という迷妄を暴くという作業が必要であった。あるいはデムスキーのやったように、情報理論の立場から、自然界の情報(すなわち自由意志の働き)と情報でないもの(必然と偶然)とを、はっきりと見分ける理論が確立される必要があった。あるいはまた、基本的物理常数が、生命を生み出すために最初からファイン・チューニング(微調整)されているという事実を次々と発見して、宇宙が最初から目的を持ったものであることを示す必要があった。
 科学者というものは地道で謙虚なものであり、そうでなければならない。これはデムスキーも強調している。決して大上段に振りかぶって高説を唱えるようなものではない。ベーエのような科学者も、細胞の繊毛や鞭毛の、あるいは血液凝固の仕組みを生化学のレベルで調べるといった、それこそ大自然の重箱の隅をつつくような仕事をして、「デザイン」というどうしても否定できない事実に行き当たっただけである。彼は、ダーウィニズムの教えるような自然力のみによる漸次進化でそういった装置を説明することはできない、と言っただけであって、では現実にどうやって出現したのか、ということまでは言っていない。それは誰にもわからない、と言っているのである。不思議は不思議として、これを払拭できるわけではないのである。

堤防を崩す蟻の穴

 マイケル・デントン(Michael Denton)というオーストラリアの分子生物学者による『進化――危機にある理論』(Evolution: A Theory in Crisis, 1986)という文献がある。これも「最近の科学の発達によって伝統的なダーウィニズムが挑戦を受けている」ということを述べただけであって、それ以上の憶測をしているわけではない。ところがこの本に対するダーウィニスト側からの書評は、「生命の始まりや進化が現実にどのようにして起こったのか、具体的な説明がないではないか」という批判ばかりだったそうである。デムスキーはこれに言及して、それは不当な言いがかりであろう、と言っている。根拠のない憶測を真理として主張するのはダーウィニストの方なのである。
 しかし、この「インテリジェント・デザイン理論」のもつ意味の重要さは、いわば大きな堤防を崩す蟻の穴のようなものであるところにある。細胞の繊毛や血液凝固の仕組みなどというものは、大自然の中の針で突いたほどの微小な事例にすぎない。けれどもそこに、デザイン、すなわち目的をもった知性の手が働いていることを明証的に指摘することができるのだとすれば、それは無限に大きな意味をもつ。
 科学者は謙虚に事実を指摘するだけである。彼らは「神」とは言わないだろう。けれども無言のうちに神の方向を指し示すのである。そういった科学者の仕事から、その意味の射程の大きさを引き出すのは、哲学者の仕事といってよいだろう。
 ベーエは「還元不能の複雑性」としての、デザインの最小単位を取り出して見せた。同様の仕事は今後、「デザイン理論」が科学者社会で認知されるにつれて――それには時間がかかるかもしれないが――生化学者の重要な、無限に豊かな仕事になっていくであろう。そういう科学者の仕事に含まれた意味を、我々は引き出すことができる。それは、もし微視的な細胞やタンパク質のレベルに、そこに働く意志、計画、設計といったものを検証することができるのだとすれば、同じことが巨視的な人間のレベルにおいても言えるだろうということである。
 つまり私の細胞がデザインされたものである以上、私という人間もデザインされたものでなければならない。細胞に何かを作り出そうとする「神」の手(目的、意志)が働いているのだとすれば、当然、私という人間においても、私を何かに向かわせようとする、あるいは何かを実現させようとする神のデザインが組み込まれていると想定しなければならない。このことをさらに、宇宙のファイン・チューニングという、明確な宇宙そのもののデザインの事実と考え合わせるならば、人間とは神に方向性を与えられて生きている存在であるという認識に、疑う余地なく行き着くのである。

「強力な酸」ダーウィニズム

 「インテリジェント・デザイン理論」とは、我々の文化の唯物論的体質――ダーウィニズムをその最も強力な暗黙の思想的根拠としている唯物論的体質――を、根本から突き崩し、改善していく契機となるはずのものである。これこそ真の意味での文化大革命運動と言うべきものであろう。ダーウィニズムとは、「それに触れるあらゆるものを溶かしてしまう容器の存在しえない強力な酸のようなものだ」と(唯物論者=ダーウィニストの!)ダニエル・デネットが言っていることは前に紹介した。これを百八十度ひっくり返すことによって、今度はデザイン理論がダーウィニズム文化の体質をすっかり変えてしまう強力な酸になりうるのである。
 ダーウィニズムが、最初は単なる生物学上の一つの問題解決として、自らは何も主張せず大声を発することもなく、暗に神の不在を指し示すことによって強力な無神論の推進力になったように、デザイン理論も、自らは直接語らず大声を発することもなく、暗に神の存在を指し示すことによって、無神論文化から有神論的文化へと徐々に文化(無言の思想的前提)の体質を変えていく強力な契機になるものと思われる。
法学者のディーン・オーバーマン(Dean Overman)という人の『偶然と自己組織化への反論』(A Case Against Accident and Self-Organization, 1997)という本は、宇宙が自らの力で偶然自己を作り出し、生命が偶然そこから発生するといったことは数値的にありえないことを論証する本であるが、その最後に、「偶然あるいは非人格的な宇宙始原説の倫理的意味」という章を設けて、次のように言っているのは注目に値する。

 本書に論じた問題の範囲を超えることであるが、私はここで、宇宙の形成と最初の生命体の形成に、偶然あるいは非人格的な原因を想定する世界観のもつ倫理的な意味合いについて考えてみたい。そのような世界観は、倫理的行動の根拠を確立する上においてきわめて難しい問題を提供する。
時間と空間の始まりが、非人格的なもので突発的あるいは偶然の出来事であったか否かという問題は、倫理における重要な問題である。非人格的な発端という考えを取るならば、人は何が正しく何が間違いであるかを語ることができなくなる。もし宇宙が偶然の産物であったなら、絶対的なものは何もなく、絶対的なものがなければ、プラトンが強調したように、道徳というものは存在しえない。正も邪も同じく無意味なものになる。

 宇宙が自己完結し自足的なものである、平たく言えば、宇宙はすべてを自前で「立ち上げ」独立採算で運営している、という考えは明らかに間違いである。その間違いを正そうとしているのがデザイン理論である。我々の宇宙は、自分を超えるものに対して開かれ、通路をもった、今の言葉で言えば、そこからインプット(入力)されている存在であると考えなければならない。しかもこの理論の強みは、科学的真理と倫理的真理、すなわち正しい知識と正しい生き方を、強力につなぐものであることである。

人間のあり方を規定

 オーバーマンの上記の箇所の少しあとに引用されているフランシス・シェーファー『いかに生きるべきか』(一九七六)の言葉が面白いので、孫引きをしておきたい。

 無限にして人格的な神がなければ、人間のなしうることは、ニーチェが言ったように、ただ「システム」を作ることだけである。今日の言葉でいえば、それは「ゲーム・プラン」(作戦、戦略)ということになるだろう。人はある種の構築物、ある種の枠組みを自分でこしらえ、その中に自らを閉じ込め、外を見ないようにして生きていくことができる。これは様々なことについての戦略でありうる。それは最大多数の最大幸福を理想として語るというような、高尚で崇高な響きをもつものでありうる。あるいは科学者が、そもそもなぜ、ものが存在するかというような大きな問題を考えなくてもよいように、何か小さな問題に心を集中するという形もありうる。それはまた、滑降のタイムを十分の一だけ縮めることに、何年にもわたって精力を費やすスキー選手でもありうる。それはまた全く同じ程度に、〈実存主義的方法論〉の枠内での神学的言葉遊びということもありうる。これがまさに、もっぱらおのれ自身を土台として生きる現代人が立ち至った、現代のあり方である。

 もし我々の宇宙が自己完結した存在であるなら、我々自身も自己完結した存在でなければならない。右の引用は、そういうふうに自己を解釈した現代人が、いかに巧みに遊戯をするか、いかにおのれの才覚でうまく生きていくか、という原理以外に生き方の原理をもつことができないということを言ったものである。現代に特有の、知識人の間に流行する理論構築遊びなどがその典型である。そういったものを無神論の傾向の強いフランスあたりから輸入して、現代思想の最先端として有難がるといった風潮が、わが国のみならず今の世界を支配しているのである。
 すべてそれは、知らぬ間に人間の考え方の隅々にまで侵入してこれを規定する「強力な酸」としてのダーウィニズムから来ているのである。インテリジェント・デザイン理論とはそこを突こうとする運動であるが、この運動はきわめて大きな射程をもつ。なぜならそれは専門家のレベルにおいて、生物学的「真理」としてのダーウィニズムの欺瞞を暴くものであるとともに、一般の人々の精神を支配する無意識のレベルのダーウィニズムを矯正――今の言葉でいえば、脱構築――しようとするものだからである。そしてこの理論の強みは、何度も言うように、宗教と違って決してこれを「神」(の存在)から始めないということである。

ダーウィニズムによる洗脳

 そのことについて語っておきたい一つのエピソードがある。
 十年ばかり前、私は、ことさら無神論者と目される人たちを招いて、これをなんとか改心(?)させようとする目論見で開かれた勉強会に呼ばれて、応援の挨拶をしたことがある。講師の話には当然、神とか神の創造という言葉が頻発した。デザイン理論に対してさえ、これを巧妙に宗教の宣伝をするためのものと受け取って、軽蔑し嘲笑する人たちがいるのである。まして、そういう人たちに対して、頭から神とか神の創造とか言えば、反発を招くのは当然であろう。果たして、聴衆の中に正直で勇気のある人がいて、いかにも我慢しきれないというように突然立ち上がり、講師の話をさえぎってこう言った。「あなたはさっきから、神とか神の創造とかしきりに言っているが、なぜそういう余計なことを言うのか。この宇宙は、ほっといたら自然にこうなったというだけではないか。それが真相なのだ。それを神の創造とか働きなどと、なぜ言わなければならないのか全く理解ができない。」
 この発言が強烈に記憶に残っているから、これはほぼ間違いなく文字通りの再現である。「この宇宙はほっといたら自然にこうなっただけ」というのは、まさにダーウィニズムの主張であるが、私はこのときの発言者の断言的口調を忘れることができない。これをもっと厳密に言えば、人間を含めたこの宇宙は、必然性(すなわち科学的法則)と偶然性のみによって、つまり物的原因のみによって勝手にできチャッタということである。こういう考え方が、何の疑念を差しはまされることもなく、平均的現代人の信念になっていると考えてよかろう。あの正直な発言者はその代弁者である。
 この恐るべき信念はいったいどこから来るのか。「それが触れるあらゆるものを溶かしてしまう強力な酸」としてのダーウィニズムの洗脳力・浸透力がいかに強いかということが、このエピソードからも如実にうかがえるであろう。

『世界思想』No.332(2003年6月号)

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