NO.2 (2003年 2月)


「インテリジェント・デザイン論」
(Intelligent Design Theory)

渡辺 久義

興奮するアメリカ人

 日本語に定着した訳語は多分ないであろう。このところアメリカでは、Intelligent Design Theory(知性によるデザイン論)あるいは単にDesign Theoryと呼ばれる理論をめぐって議論が一挙に噴き出してきた観がある。これはまさに、前号に述べた「コペルニクス的逆転回」というべき宇宙観の大革命が起こりつつあることの証拠だと言ってよい。私は今のところ、数冊の関連書物と、あとはインターネットから読み出せる溢れんばかりの文献の一部を見ているに過ぎないのだが、アメリカ人がこの問題についていかに興奮しているかがよく伝わってくる。そしてこの新しい考え方に対する抵抗勢力も、かなりのものであることがよくわかる。前号に書いたように、そんなことがあっては困る人々がいるのである。
 これはわが国の「自虐史観」を唱える左翼勢力が、それを修正しようとする保守勢力に徹底して譲らずこれを敵視するのに似ているが、似ているのはそこまでである。日本ではこういう有神論と無神論、あるいは進化論や宇宙解釈をめぐっての大論争はまず起こらないのではなかろうか。今までにも起こったことがないからである。しかしこれは歴史解釈の問題などとは重要さにおいて比べものにならない、おのれ自身の解釈と起源の問題なのである。それを考えると不思議でもあり情けなくもある。
 しかし今、ますます精度を高めつつある観測や観察によって、この宇宙がビッグバンの初めから将来人間を生み出すために、基本的な物理的数値が恐るべき精度でもって「微調整」されていたとするいわゆる「人間原理」が、いよいよ疑い得ぬものになるとともに、生命科学や情報科学の方からも「知性によるデザイン」を論証する理論が出現するに及んで、我々は宇宙解釈の選択を突きつけられた形なのである。いかに根源的な問題を問うことの嫌いな日本人とはいえ、今までのようにこれを避けて通るわけにはいかないのである。有神論(何らかの形での)か無神論=唯物論かの二者択一を迫られているのである。
 学者であろうがなかろうが、人間として最も深刻な問題のはずであり最も激しい争点となるべきダーウィン進化論が、わが国では軽々と受け入れられ、軽々とのさばっていると言ってよいだろう。恐竜好きの私の孫(五歳)のもっている「大昔の動物」というような本の巻末にも、いとも平然とダーウィンの進化論が説明してある。また、(かつて私の注意を引いたのでしおりを挟んでおいた)出隆訳のアリストテレス『形而上学、下』(岩波文庫、一九六一年初版)の訳者解説には、こんな文章が見える――「人類が猿類から発生したとは知らず〈人間は人間を生む〉と確信していたアリストテレスにおいては、人間においてその肉体よりも霊魂の方が、概念的・目的論的に優先的であり根源的であるのみでなく発生論的にも先であり根源的であると語ることは容易であった。」
 数十年の時代の差を割り引くとしても、これは何の躊躇もなくダーウィン説を真理とし、アリストテレスを信用ならぬ過去の遺物と信ずる人の文章であり、こういう人がアリストテレスを訳していたのである。ダーウィニストのカール・セーガンは、アメリカ人の一割しかダーウィン進化論を信じていないといって嘆いているが、これはプロにせよコンにせよ、とにかく我々の喉元に突きつけられた問題のはずなのである。

苦しい反論

 この問題についての無神論側の急先鋒は、やはり『盲目の時計職人』(The Blind Watchmaker)や『利己的遺伝子』(The Selfish Gene)を書いたリチャード・ドーキンズ(Richard Dawkins)であろう。何人かの論者が彼の次の言葉を引用している――「生物学とは、ある目的のためにデザインされたかのようにみえる複雑なものの研究のことである。」ここには自然界の「デザイン」や目的性をあくまで錯覚とみようとする強い意志が現われていて、彼の唯物論は有神論の立場からみれば確信犯のようにみえる。実際に確信犯的(悪役的)意識が彼の中にあるから、あれほどまでに戦闘的なのであろう。
生物学をそういうものと定義して、あくまでそういう前提で研究を進めよう、というのなら勝手である。それは最初に、手を使ってはいけないと取り決めておいて試合を進めるサッカーのようなものだからである。けれどもそういう生物学の方法が、いつのまにか哲学あるいは世界観になってしまうから問題が生ずるのである。生物学など知ったことではない――一般人にとっては。けれども我々が自分が何ものであるかという、自分の存在の意味を考えるときにも、決められた禁じ手があるというなら、それは北朝鮮の思想統制と同じことになるのである。
 「デザイン説」に対する反対論は、多くの論者が言うとおり苦しい論法によるものである。インターネットで読んだその一つ紹介しておきたい。この論者が言うには、近代の唯物論的科学は、かつてアリストテレスが考えた「目的因」も「形相因」も排除して物理的原因だけで世界を理解しようとしたことが間違いだった、などと言う人がいるけれども、それは物理的原因というものが目的実現力や創造力をも持ちうることを知らない無知によるものだ、というのである。これはある程度の根拠、例えばある特定の物理現象の「自己組織化」などが頭にあって言うのであろうけれども、これは環境異変による生物種のごく小さな変化によって大進化を説明しようとするのと同じ論法で、苦しい反対論というべきであろう。

心も自然界に働く

 インターネットサイトで最も多くのリンクを張っているIntelligent Design Theory: “A New Science for a New Century”は書き出しにこう言っている。

 この新しい研究プログラム――「デザイン・セオリー」と呼ばれる――は情報科学の最近の発展やデザイン〔計画、設計〕の多くの新しい証拠に基づいている。デザイン・セオリーは、物質だけでなく心をも、世界に働いている原因として認めることによって、多くの長く停滞していた学問方法を再活性させようとするものである。またその含意するところは、現実世界と人間のよりホーリスティックな観点を伸長させ、唯物論のもたらした破壊的な結果のいくつかを回復させる一助となることである。

 まさに歓迎すべき動向が見えてきたというべきではないだろうか。この「唯物論のもたらした破壊的な結果」の一つがダーウィン説による人間観の荒廃である。唯物論者ダニエル・デネット(Daniel Dennett)の『ダーウィンの危険思想』(Darwin's Dangerous Idea)という本は、この「すべてを溶解させる容器の存在しえない酸」のような「革命理論」を賛美する、ダーウィン信奉者の立場から書かれた奇妙な書名をもつ本だが、言っていることは真実を突いている。

 ダーウィンの考えは生物学の問題への回答として生まれたものであった。しかしそれはやがて外へ洩れ出そうとし、歓迎されようとされまいと、一方においては宇宙論の問題に、他方において心理学の問題に解答を提供した。…もし心を持たぬ進化が生命世界の息を呑むような造化の妙を説明できるなら、どうして我々自身の「現実の」心から生み出されたものが進化論的説明を免れることができようか。こうしてダーウィンの考えは、ずっと上のほうへと広がっていき、我々自身の作者という幻想と、創造性とか理解力という我々自身の神的なひらめきの炎を溶解させたのである。

 「デザイン論者」の論調に共通しているのは、抵抗勢力に劣らぬ戦闘的気分だと言ってよい。どうやらダーウィン主義者は、どれだけ不利な立場に追い込まれても動じないどころか、ますます論敵を嘲笑するようである。なぜそうなのであろうか。それは誰かが指摘していたように、彼らには唯物論的世界観という譲れない立場が信仰として先ずあるのであって、ダーウィニズムはその信仰を固守するか放棄するかの最後の拠点、つまり背水の陣でもあり、また最強の堡塁でもあるのである。容易に引き下がれるわけがないことがわかるであろう。マルクシズムもダーウィニズムも、ともに唯物論であり唯物論は信仰なのである。少なくともそれらは形而下学(自然学)を装った形而上学(超自然学)なのである。マルクス主義がいかなる現実を突きつけられても、それを乗り越えるパワーをもっていたことを思い合わせるとよい。
 ちょうど日本の左翼的教育界と同じように、アメリカのダーウィン主義者もあらゆる手を使って「デザイン論者」を妨害しようとしているらしい。詳しくは紹介しないが、アメリカの教科書記述に使われている汚い手の例をあげている論者もいる。しかしもしかりに、デザイン派が生物の偏向教科書を(一気には無理だろうから)徐々に修正するような教科書を作ったとしたら、ダーウィン派はそれこそ汚い手だといって騒ぎ立てるだろう。日本の歴史教科書をめぐる出来事と同じことが予想されるのではないだろうか。

還元不能の複雑性

 ベストセラーになったという『ダーウィンのブラック・ボックス』(Darwin's Black Box)の著者であり「デザイン論」を生化学の立場から補強する強力な論者であるマイケル・ベーエ(Michael Behe 正しくはビーヒーだが翻訳書に合わせておく)は、「デザイン」というものを単純に「部品の、目的をもった配列」であると定義し、そういうものとしての「還元不能の複雑性」があるのだと主張する。こういう論証が「人間原理」とともに「デザイン論」を支える柱の一つになっている。ベーエがこの本で言っていることを最後に引用しておきたい。

 細胞の研究――分子レベルでの生命の研究――のこうした積み重ねの努力の結果は、「デザイン!」という大声の明確なつんざくような叫びである。この結果はあまりにも曖昧の余地がなく、あまりにも意味深いものであるので、科学の歴史の中でも最も偉大な成果の一つとして位置づけられなければならない。この発見はニュートンやアインシュタイン、ラヴォアジェやシュレーディンガー、パスツールそしてダーウィンのそれに匹敵するものである。生命の知性によるデザインの観察は、地球が太陽のまわりを回るとか、病気はバクテリアによって引き起こされるとか、放射は量子の形で放出されるという観察と同じくらい重みを持ったものである。何十年という年月にわたって続けられた努力によって、これほどの代価を払って得たこの勝利の大きさからすれば、さぞ世界中の実験室でシャンパンの栓が抜かれて飛び交うことであろうと人は思うだろう。この科学の勝利は、万もの喉から発せられる「ユリーカ」(われ発見せり)の叫びを、また多くの拍手とハイタッチを惹起し、あるいは一日の休暇を取る口実にさえなってよいものである。      
 ところが、いかなるボトルの栓も抜かれず、いかなる拍手もなかった。その代わりに、ある奇妙な当惑した沈黙が、細胞のむき出しの複雑性を取り巻いている。この話題が大衆の間に出て行くと、人々の足はひそかに踊りだし、呼吸はわずかに荒くなる。心の中では人々はちょっぴり安心し、多くの人ははっきりとこの当然のことを受け入れる。しかしその次には目を落とし、首を横に振り、まあそういうことにしておこうと言う。         
 なぜ科学者共同体は彼らのこの驚くべき発見を貪欲に抱きしめないのだろうか。なぜこのデザインの観察は知的用心の手袋をはめて扱われるのだろうか。ジレンマは、この巨象の片側には「知性によるデザイン」と書かれているが、もう一方の側には「神」と書かれるかもしれないということである。(232―233頁)

 学問の世界で、特に自然科学の世界で、天動説を地動説に、あるいは地動説を天動説に切り替えることが並大抵のことでないことはよくよく理解できる。科学者はおおむね自由な発想、突拍子もない発想といったものが好きである。それが思いがけない発見につながるからである。けれどもこの「インテリジェント・デザイン」になると話は別である。それは自分の立っている足場の問題になるからである。いったいこの世界の基底に何を想定するか、物質を想定するか生命あるいは心を想定するか、という最初の選択的決断の問題なのである。私はこのことを最近刊行した著書(『善く生きる』―世界日報社)の中で詳しく論じた。
ベーエの取り出してみせる、目的をもったそれ以上還元できぬ複雑性とは、彼はそういう言葉は使わないかもしれないが、神の細工の最小単位をそこに見るということなのである。ドーキンズは例によってこれを口汚く攻撃して、「それは怠け者の生物学者の言うことだ」と言っているそうである。どんな形であっても神を取り入れたときに科学者は科学者として失格だということであろう。私はこの問題を更に稿をあらためて考えてみたいと思う。

『世界思想』No.328 (2003年 2月号)

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