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「ずっと下まですべて生命」――スティーヴン・タルボットの生物学的ヴィジョン

Tom Bethell
March 9, 2012

過去2年のうちにStephen L. Talbottは、New Atlantis誌に、現代生物学についての4つの長い批判的な論文を書いている。NY州ゲントにあるNature Instituteの上級研究員であるタルボットは、生命研究のまさに新しいパラダイムを目指しているようだ。「コードという幻想を乗り越える」“Getting Over the Code Delusion”(2010夏号)に始まる4篇の論文は、いずれも短い本と言ってよく、必ずしも読みやすくはないが、注意深く書かれ、専門用語はなく、大いに読み甲斐のあるものばかりだ。

「存在の耐えられない全体性」“The Unbearable Wholeness of Beings”(秋号2010)において彼は、生物は全体であって、機械のように、つまり機械的に部分を次々につなぐようにして組み立てられていると考えることはできない、と説得力をもって論じている。「時計の部品はある方法でつないだものだが、生物の部品はそもそもの最初から一つの統合的一体の内部で成長する」と彼は書いている。これは発生する胚に見られる。

部品がくっつき合って全体を形成するのでなく、種子あるいは初期胚の先在的全体性から発展的に自己を分化していく。それらは機能し始めると同時に成長しているのであり、それが機能することは成長へ向かっての貢献である。部品は決して過去も現在も、完全に別々だったことはなく、決して「組み立てられる」のではない。外から取り込まれた特定の食物は、決してそこに加えられた、何か新しい識別できる部分にはならない。それはすでにそこにあった支配的一体性によって、新陳代謝的に変形され同化される。

この「ホーリスティック」な考え方が、タルボットの全体的見方を支配しているが、これはダーウィン時代以来の西洋に支配的だった機械的見方に逆らうものである。のみならず彼は、世俗的か宗教的かというような、また偶然か、必然か、デザインか、創造かといった、我々の今日の考え方を支配するカテゴリー(範疇)にあまり頼ってはいない。

「進化論とランダムという幻覚」“Evolution and the Illusion of Randomness”(2011秋号)において彼は、(適応の概念のような)基本的なダーウィン的ドグマを疑う。「生物とは何を意味するか?」“What Do Organisms Mean?”(2011冬号)では、彼は、今日の生物学者が明らかに決して尋ねない、生物についての問いを提起する。

タルボットは現代生物学の、ボトムアップの方式で――あたかもそれが生物を理解する当たり前の方法であるかのように――生物を見る傾向に疑問を呈する。それはまるで、船の行き先は、エンジン・ルームをよく調べればわかると考えるような間違いだ。あるいは本の内容は、紙とインクの化学成分を調べれば分かってくる、と考えるようなものだ。

生物学においては、分子レベルで起こっていることをいくら調べても、そのレベル以上のことは分からない。そこに見出されるのは「機械のスクラップ」である。にもかかわらず我々は、自然選択の機械的働きによって、次のようになったと本気で考えるように言われている――「これら下部レベルの分子機械がゆっくり進化して、我々自身を含む、生物として認識される、見かけ上目的をもった複雑な実体へと発展した」と。これは空しい思考訓練だ。

タルボットは、「ゲノム・プロジェクト」は期待されたようなものを我々に与えなかった、と雄弁に論じている。ゲノム革命について最も顕著なことは、「そんな革命は起こらなかったことだ」と彼は言う。我々は大量の新しいデータを得た。そして我々は「たとえほとんど試行錯誤によるものだとしても、ある操作的能力を獲得した。しかし、生きた細胞の完全性と統一された機能についての我々の理解は、このデータの奔流によって、明るくなったというよりは、むしろ暗くなった。」

この最後に言われていることは確かに正しい。遺伝学についての我々の現在の理解は、四半世紀前よりももっと混乱しているように思える。タルボットの引用によると、LindaおよびEdward McCabeは、論文“DNA: Promise and Peril”(2008)の中で、こう述懐している――「遺伝学共同体の我々の多くは、DNA分析が、我々の個々の患者の臨床治療の未来を、きわめて正確に教える分子の水晶球を、与えてくれるものと心から信じていた。」

しかしそうはならなかった。いろんな病気を「起こす」遺伝子は、明確な形では現れなかった。そしてガンの場合は、ますます多くの遺伝子がガンと「かかわっている」が、それらは必ずしも、それを引き起こすわけではないことがわかった。

人間、チンパンジー、ゴリラの相似点や相違点の理解については、彼らと我々の細胞内部に渦巻いている分子よりも、それらの動物そのものを調べた方が、よほど効果的なのだ。タルボットによれば――

もし我々が、我々の宙に浮いた理論をもっと科学的観察に根付かせていたならば、人間とチンパンジーの遺伝子コードの相似性への正しい反応は、「まあ、我々が自分の遺伝子のものと考えていた、中心的で決定的な役割はこの程度のものだろう」となったことであろう。

人間ゲノム・プロジェクトが、人間の遺伝子数を下方修正して10万を2万5千に減らしたとき、我々はまた、はるかにもっと単純な動物――例えば線虫(回虫)など――も大体同じ数の遺伝子をもっていると聞かされた。ミジンコは3万9千の遺伝子をもつことが発見された。「〈チンパンジーは人間と変わらない〉と宣伝する連中でさえ、自分がミジンコと同じ程度であるとは予想していなかった。」

こうした数字は、我々の遺伝子理解に深刻な問題があることを教えるものだった。実際、遺伝子という概念が究極的に生き残るかどうかも定かではない。のみならず、我々の「コード解読」計画の結果、DNAの大部分は無意をもたないように見えた。多くの遺伝子学者は、まさにそれが進化を証明するようにみえたので、喜んでこれを「ジャンク」として退けた。すなわち、これを長年にわたってエラーが蓄積した試行錯誤のシステムと見たのである。

公的科学は、特にそれが政府の基金によるものである場合は、間違いを認めることを極度に嫌がる。しかし私の見方では、我々のDNA理解のこうした大変な錯誤は、教訓として働いたのであり、(長い目で見れば)遺伝(子)学の大規模な修正につながるだろうと考える。しかしそれは一世代はかかるだろう。その間、研究者の多くは同じこれまでのやり方を踏襲しようとするだろう。

創造とデザインについてひと言――スティーヴン・タルボットはリチャード・ドーキンズやダニエル・デネットを批判するが、それは「おそらく彼らがひどく宗教に拘束され、あるいは一部の宗教的な人々の宣伝する「創造論」とか「インテリジェント・デザイン」で頭が一杯になった結果、デザインにこだわりすぎる」ようにみえるからである。

実際、タルボット自身はデザインという考えを好まず、彼の世界観は神を含むものでもないようにみえる。「デザインという言葉には正当な使い方がある」と彼は言う。しかし「あなたは私がデザインを論じているのを見つけることはないだろう。」なぜなのか? それは次のような文章から推測することができる――

(生物は)工学技術者の神によってでも、神のような位置に高められた盲目の時計職人によってでも、機械のようにデザインされたと考えることはできない。もし生物がより高い生命に関与しているなら、それは内部から――古代人がすべてのものに形を与えていると考えたロゴスのように深いレベルで――働いている関与である。それは生命と存在のsprings(泉、根源)を分け合うことであって、人間中心的に我々の工学をモデルにした、外からの機械的製作の単なる受け手になることではない。

おそらく彼が真に反対しているのは、ここでもまた概念的な分離である。すなわち創造者と創造されたものの分離である。彼はこれを、人工のもう一つの働きとして見ることもできるだろう。それは、全体を部分に分けることへの彼の反発に並行するらしい分断である。彼の見方では、すべてが互いに絡み合っている。すべてが何らかの栄光ある全体につながったものでなければならない。

タルボットは、世界が巨大な亀の背に乗っていると信じる老婦人の話を好む。その亀は何の上に乗っているのかと聞かれると、彼女はもう一つの亀だと言う。そして最後には「ずっと下まで全部亀なのよ」と彼女は答えた。

彼はこれをコメントして言う、「生物学の科学的理解の比喩として、この話はすばらしく真実だ。生物の研究においては〈ずっと下まですべて生命なのだ〉

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