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宇宙は取り憑かれている――Nature of Natureを読む

David Klinghoffer
March 18, 2011

巧みな詐術による現代プロパガンダの歴史で、IDをキリスト教ファンダメンタリズムの創造論と同一視するウソほど、世間を欺くのに成功した鉄面 皮のウソを考えるのはむつかしい。それに関連するほとんど同じくらい影響力あるウソは、あの現代唯物論ないし自然主義教義を支える大黒柱であるダーウィニズムについて、言うに足る科学論争など存在しないというウソだ。

このどちらの点についてもいまだに釈然としないという人は、しばらく時間を割いて、900頁に及ぶ分厚な学問的エッセイ集、The Nature of Nature(自然の性質)を覗いてみられるがよい。自然主義とダーウィニズムを、弁護する側と批判する側の、科学者と哲学者たちが最高レベルの論戦を繰り広げている。

IDにキリスト教創造論のラベルを貼るのにダーウィニストが成功している一つの理由は、ID側が少し立ち止まって、自然界で本当のところ何が起こっているのかについて、巨視的で包括的な、わかりやすい像を描いてみせるのを怠っているからでもある。ID理論家は一生懸命苦心して、デザイナーが自然界を形成したことを論証するが、彼らはそれを小さなカンヴァスに描く傾向がある。一人ひとりが、特定の専門分野でのデザインの証拠、あるいはダーウィン的思考の特定の顕著な欠陥を見ている。The Nature of Natureはその記念碑的な包括性において際立っている。

ノーベル賞受賞者と並んで主導的ID理論家という多彩 な学者グループが寄稿者として、生物学、宇宙学、数学、神経科学、その他の分野からの証拠の、究極の意味について考察している。そのためこの本は読者が大きな像を描くことを可能にしている。

自然主義とは、物的自然が宇宙に存在するすべてであり、霊的あるいはその他非物質的な存在や現実はないとする考え方である。ノートルダム大学の哲学者Alvin Plantingaがここで主張しているように、これは単なる無神論よりももっとラディカルで、もっと深刻に気力を失わせ、様々な方向に発展する思想である。無神論者は、一方で例えば、ヘーゲルの「絶対者」やアリストテレスの非人格的「不動の動者」の存在を肯定しながら、他方で神を否定することもできる。自然主義者はそのどちらも否定する。

とはいえ自然主義そのものは、「宗教の認識あるいは世界観形成の役目を果 たす」信仰の側面をもっている。このことからプランティンガは、これに「名目上の宗教の地位 」を与えている。

自然主義は学界における標準的世界観でもある。このことはこの本が、Baylor Universityで起こった検閲というスキャンダラスな行為に端を発していることを説明する。2000年、ベイラー大学評議会は、学内にできたばかりのID研究センターを恐れ、慌てふためいてこれを閉鎖した。それはこのセンターが「自然の性質」に関する会議を開催したほんの数日後のことだった。この会議は、ダーウィン理論やそれに関連する自然主義形態を信ずる人たちと、ID唱道者や他の異端者たちを対面 させて行われたものである。「自然の性質」会議は、多くの独創的な発表と豊富な新しい資料を集めた。

企画者は、2人のベイラー大学の学者で、この本の編集者でもある数学者William Dembskiと科学哲学者Bruce Gordonだった。彼らはその後、ディスカヴァリー研究所の「科学と文化センター」など、他の学術的ポストに移った。彼らの所属していたシンクタンク「複雑性、情報、デザインのためのマイケル・ポランニー・センター」は、ただ記憶の中にのみ存続している。

いわゆる創造論者を抱えているという噂が立つことを恐れたベイラーの教授団は、自然主義の科学的信頼性が活発な議論の的になっていることに耐えられなかった。その理由は、この大学がテキサス洗礼派教会を母体とすることの記憶を呼び起されることによって、教授たちが迷惑を蒙る恐れがあったからだ。

実際には、The Nature of Nature所収の自然主義を批判する論文から受ける印象は、どんなセクト的分類とも完全に無関係である。研究教育の場以外では、寄稿者の多くは宗教的信仰をもっていることを否定しようとはしない。それは対立する立場の、ノーベル賞物理学者Steven Weinbergや科学史家Michael Shermerのような会議参加者たちが、戦闘的な無神論者であるのと同じことである。しかしこれらのエッセイから現れてくる宇宙像は、宗教的なものでは全くない。

その印象をこんなふうに言ってもよい――宇宙は取り憑かれている(The universe is haunted)。

幽霊にでなく、太古の、目に見えない非物質的作用(agency)の根源に、である。この作用主体が複数か一つであるかは、科学的証拠からは全くわからない。進化論をダーウィンと同時に発表した、そして決してクリスチャンとは言えないAlfred Russel Wallace (1823-1913)は、最終的には、宇宙の「インテリジェンス」あるいは「天使」と自ら呼んだものの導きの活動が、生命の起源と発展を十分に説明するためには必要だという結論に至った。それらの役割は、自然選択に選択すべきものを与えることであった。天使がこのような機能を果 たすという考えは、この問題に関するラビの伝統や中世の神学者の思想とアリストテレスを統合した、マイモニデスにまで遡る。

その性質がどうであれ、そのようなインテリジェンスの力は、宇宙137億5000万年の歴史を始動させ、37億年前から生命歴史の展開を導いてきたものであるに違いない。

天体物理学者Guillermo Gonzalezがここで論じているように、生命に適していると同時に宇宙と科学の探究に適した惑星の形成には、物理常数と環境条件の「全体的」「局所的」と彼が呼ぶ二重のファイン・チューニングという極端に困難な条件が必要であった。空想的宇宙学者たちは、このことの神学的意味合い――何ものかが初めに我々を頭においていたという――を、無限数の宇宙の存在を考えることによって奇跡と思えるものを説明して片づける、「多重宇宙」というお話を紡ぎ出すことによって、避けようと試みてきた。

“Balloons on a String: A Critique of Multiverse Cosmology”(紐の上の風船――多重宇宙論批判)という論文で、ブルース・ゴードンは、「いかに科学的唯物論者たちが、神嫌いのあまりの思いつきで、十分な先行する原因も理由もなしに、どんなことでも起こり得る宇宙を認証する必要に駆られた」ことを示している。彼はこう尋ねる――「そこで、今どき誰が奇跡を信ずるというのだ?」

しかし自然主義者はそういったものを信じなければならないのだ、とゴードン博士は言う。なぜならそれに代る理論は「唯一の十分な原因としての超越的知的作用者であり、それが我々の存在の唯一の合理的説明だから」である。スタンフォードの物理学者であり「ひも風景」宇宙論の初期の唱道者であるLeonard Susskindが正直に認めるように、「自然界の微調整の説明が全くなければ、我々がID陣営の批判に応えることは非常に困難になる」のだ。

ゴンザレス博士の言葉でいえば、自然界で作用しているデザインは、最も全体的なレベル――宇宙全体のレベル――から、最も局所的なレベルであるDNAにコードされたプログラミングをもつ生きた細胞まで、更には物理的存在に見られる最小の量 子力学のレベルまで、観察することができる。

多くの寄稿者が強調しているのは、進化論的見方のもつ真の問題は、生命の歴史は十分に長いとか、生命が取る形態は連続して変化しているとか、動物の種類は人間を含めてその前のものから生まれたとかいった論点にあるのではない、ということである。またこの問題は、繁殖に適さない生物は繁殖しないとか、種をばらまくのに適した生物は生き残るチャンスが多いといった、反論できない当たり前の論点にあるのでもない。

生命進化の自然主義的説明のもつ欠陥は、ランダムな変化、後のネオダーウィニズムでは遺伝子の変異として説明される変化が、自然選択が選ぶことのできる十分な原材料を提供すると考えることにある。Lehigh(リーハイ)大学の生化学者Michael Behe(ビーヒー)は、“The Limits of Non-Intelligent Explanations in Molecular Biology”(分子生物学における非インテリジェントな説明の限界)において、フィールドワークや実験室での、人間、マラリア寄生虫、大腸菌、HIVウィルスの研究から得られた経験的データを考察している。彼はランダムな変異の能力には厳しい限界があると結論する。

このような変化が生き残りを助けることがあるのは、遺伝子コードがある小さな機能を失い、それがたまたま周辺的な利点を与える場合である。しかしこれは、導きや指令なしに何もないところから機能を構築することとは全く別 の話である。それはほとんど完全にランダムな変化の能力を超えている。何よりもまず、純粋に新しい機能が生ずる前に、もとの機能の喪失が重なっていけば、その生物のゲノムは劣化し、進化し続けるどころか、それが生き残ることさえほとんど望めないのだ。

ダーウィニストはこのような困難を、十分な時間さえあれば、導かれない進化がどんなことでもなしうるという信念によって一蹴する。分子生物学者Douglas Axeは、数学的にそれはありえないと結論する。DNAは、アミノ酸鎖の正確に配列された折り畳みからタンパク質を製造するようにコードしている。この折りたたみ過程が、最終的に、細胞を機能させる、驚くべく複雑な分子機械の構築となる。

ダーウィニストが嫌がる具体的で現実的な言葉を用いて、アックス博士は、導かれないランダムな変異の過程によって選ばれなければならないとした場合の、アミノ酸の可能な組み合わせの、ほとんど信じられない膨大な数を割り出している。このように計算した場合、現れてくるのは、ダーウィニストが鼻歌交じりに踏み渡る橋の下に待ち構える、防ぎようのない魔神である。アックスはこれを穏やかに「サンプリング問題」と呼んでいる。

彼の結論はこうだ――「生物に見られるタンパク質の構造が、微小な祖先的構造物から、1)単なる単純な変異が起こることによって、2)一つの完成された構造が次のそれへと進歩することによって、3)それぞれの段階で生物学的に重要な役目を十分に果 たしながら、組み立てられたと仮定するのは、全くあり得ないことの仮定である。

コンピューター知能分野のパイオニアであるベイラー大学のRobert Marksとの共同論文で、ウィリアム・デムスキーは、なぜ、もし知的な作用力に導かれなければ、ゲノムへの生物学的情報の書き込みが、圧倒的に越えられない障害にぶつかるかを説明する、自然の基本法則を述べている。

スタンフォードの数学者Keith Devlinは、情報は「物質やエネルギーとともに(そして究極的にそれらと互換的に)宇宙の基本的な特性であるかもしれない」と示唆している。デムスキーとマークスによって公式化された「情報保存の法則」は、形式的な言葉で同じことを述べるもので、情報は一方的に自然の組織の中に持ち込まれ、混ぜ合わすことができるだけだと主張する。ゲノムにおけるように情報が突如として現れる場合には、ちょうどビッグバンにおいて物質とエネルギーが突如として存在したときのように、それは外部からそこへと種をまかれたに違いない。

見方によれば、これを起こした力は自然の中に内在していたようにみえ、また全く超越的なものであるようにもみえる。もし究極のインテリジェンスと意志の在処が、自然的・物理的宇宙を超越しているだけでなく、それを人間の言葉で性格づけようとする我々の努力をも超越していたとしても、不思議ではないだろう。

『自然の性質』のいかなる論者も、あえてこれ以上のことを、科学的証拠からは、デザインする主体の正体や性質について語りはしない。しかし何人かの論者は、IDについての論争をこう着させている、関連した混乱を取り除こうと努めている。

科学哲学者Steven Meyerは、いかなるメカニズムによって、デザイナーが宇宙と生命の進化を導いているのか、IDは言えないではないか、という難詰に取り組んでいる。自然主義者は、科学はただ物理的メカニズムだけを扱うものだと主張する。もしIDがそのメカニズムをはっきりさせることができないのなら、それは科学として失格で考慮に値しないではないか。しかしマイヤーが指摘するように、ニュートンが、重力が働くメカニズムをはっきりさせることができなかったからといって、ニュートンの重力理論の科学的信頼性を疑う者はいない。現代科学においては、いったいどんなメカニズムによって、心が意識や意志を肉体的行動に翻訳しているのか誰も知らない。

量子力学の働きはさらにそれ以上に不透明だ。そこではいかなるメカニズムも原理的にさえ解明不可能に見える。このことからブルース・ゴードンは、“A Quantum-Theoretic Argument against Naturalism”(自然主義に対する量 子理論からの反論)というこの本で最も驚かせるエッセイを書いた。私には評価の能力はないが、彼が厳密な証明によって示しているらしいように、量 子的現象の数学的記述は、物質的実体そのものが、非物質的な心あるいは心たちの幻覚的投影かもしれないと示唆している。ゴードンは付随的に、この見方と、18世紀の神学者ジョージ・バークレーやジョナサン・エドワーズの「非物質主義」との類似性に言及している。

あえて言えば、この論集から現れてくる自然のイメージは神秘的な様相を帯びている。これはこの本が全体的にかなり無味乾燥な読み物であるにもかかわらず、そうなのだ。その説得力は、言おうとしていることを伝える、控え目な、非詩的な調子にこそある。例えば表面 的には、生物学やその他の情報の概念ほど、非詩的で、非神秘的なものはなかろう。

デムスキーとマークスは、情報の生成を、可能性を絞っていくことと定義している。これを説明するために彼らは、散文の文章が生成される例をあげている。これを果 たすためには、そのほとんどが無意味な寄せ集めである、文字の膨大な量 の可能な組み合わせを篩にかけ、単に意味というだけでなく、あなたの意図する意味を生成するような組み合わせを見つけなければならない。彼らはG・K・チェスタートンを引用している――「あらゆる意志の行為は自己限定の行為である。行動を起こそうとすることは限定しようとすることである。その意味では、すべての行為は自己犠牲の行為である。何にせよあなたが選ぶとき、あなたは他のすべてを拒絶するのだ。」

しかしこれはチェスタートンの独創による洞察ではない。それにはかなり古い系譜がある。ユダヤ神秘主義の伝統は、神の世界創造の始まりが、まさにこのような自己限定の行為による言葉の文字の、正確な配列によって成し遂げられると言っている。これをヘブライ語でtzimtzumといい、これは収縮あるいは削減を意味する。この方法によって神は、無限の可能性の空間から切り取られた、神の創造が行われるための場所を切り開いたのである。

ではいったい、ベイラー大学教授団が慌てふためき、自然界のデザインの証拠を探ろうとする同僚たちによる大胆な試みを押しつぶそうとした、あの中傷誹謗は何なのか?「IDイコール聖書の創造論」という神話、「進化論争は存在せず」というタワゴトは、いったい何なのか? 

この本についてどんな批評がありえても、ここに集められた唯物論批判者たちによる思考の跡には、聖書の創造論と言えるようないかなるものも認められない。そしてきわめて真剣な進化論論争が存在するという事実も否定できない。教授たちや論争家たちに行きわたったこのような悪意の決まり文句は、この本の学術的な重みの下で潰れ去るであろう。

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