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ウォーレスとダーウィニズムの凋落を早めた顕微鏡

David Klinghoffer
February 3, 2011

進化論の共同発見者であるAlfred Russel Wallaceは、盲目的な物力には、複雑な生物学的構造を生み出す力はないという彼の信念がますます強まるにつれて、ダーウィンとは袂を分かつことになった。 彼が指摘したさまざまなことのなかで、最も重要なのは、生命起源そのものは神秘であってダーウィンの考え方では解決しないという指摘である。科学史家Michael Flanneryの魅力ある簡潔な伝記、Alfred Russel Wallace: A Rediscovered Lifeを読みながら私は、唯物論的な進化思想にウォーレスが疑問をもち始めたことに対し、科学の他の分野の進歩がどの程度働いていたのだろうかと考えていた。

この二人が、同じ年に自然選択説発表したという事実にもかかわらず、『種の起源』(1859)とウォーレスの主著『生命の世界』(The World of Life,1910)の間には、何と言っても51年のギャップがある。半世紀の間には多くのことが起こり得る。後者は現代のID理論を不思議にも予兆しているが、中でもおそらく最も不思議なのは、後にマイケル・ビーヒーやスティーヴン・マイヤーによって十分に明確な表現を与えられることになった細胞の議論に、ウォーレスが方向性を与えていることである。

私は特に顕微鏡について疑問が生じたので、1859年と1910年の間に、ウォーレスがIDの証拠として細胞に焦点を当てていることを説明する一助となるような、顕微鏡の性能の十分な進歩があったのかどうかフラナリー教授に訊ねてみた。これは科学的知識の増大とともに、(ウォーレスがその実質的な創始者である)IDが説得力を増し、ダーウィニズムがそれを失っていくことを確認する最初のものというわけではない。フラナリー教授は次のような返答をくれた――

ここで問題となっているのは、なぜ、またどのようにして、ウォーレスがダーウィンよりも、細胞についての複雑な見解をもつことができるようになったのか、ということでしょう。答えは複雑です。短く答えるならば、確かに顕微鏡は1910年には1859年より格段によくなったと言えます。しかしそれに対する答えは、Rudolph Virchow(1821-1902)によって導入された細胞病理学の分野全体と細胞学一般 の進歩に、関係していると思います。実際、現代病理学はウィルヒョウから始まっています。1880年代までに、ドイツの動物学者Karl August Mobiusのような科学者たちは、後に細胞小器官(organelle)として開発され知られるようになった構造物を細かく説明するようになりました。


同時に顕微鏡の技術は確かに、ミクロトームのような薄片を採取する機器や選択的染色の染料の導入によって促進されました。ドイツの細胞学者Walther Flemmingは、染色質を発見するのに、新しいanaline染料や改良された顕微鏡を使いました。これらが一緒になって、1888年にWaldeyerによって染色体と名付けられた、より大きな糸を形成することになりました。また1893年までに、大きく顕微鏡解析を進歩させたAugust Kohlerのイルミネーション技術を獲得しました(電子顕微鏡は1931年までなかった)。

またウォーレスは、August Weismann (1834-1914)の仕事から恩恵を受けています。ワイスマンは(ダーウィンの考えた理論の一つでもある)汎生説(pangenesis)を現実に葬った人です。ワイスマンは、遺伝情報は体細胞から生殖細胞へ、次世代へと移行することはできないことを証明しました(ワイスマン・バリアーとして知られ、現代ネオダーウィン総合論の鍵となる)。これは私の本の82頁にあります。今日、ワイスマンはダーウィニストの間では高く評価され、エルンスト・マイヤーなどは、ダーウィン自身に次ぐ地位 を与えています。しかし私は、ワイスマンがランダムな変異と考えたものを、ウォーレスは情報と秩序と見ていたと思います。また言うまでもなく、1900年にはHugo de VriesとCarl Corrensがメンデルを再発見しています。だから1859年から1910までに非常に多くのことが起こったわけです。

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