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反ダーウィニスト・ウォーレスの100年の挑戦

Michael Flannery(新刊のウォーレスの伝記Alfred Russel Wallace: A Rediscovered Lifeの著者)
January 25, 2011

Alfred Russel Wallaceは1910年、唯物論者たちにこう言って喧嘩を売った――「進化論の何ものも人間の魂(心)を説明することはできない。人間と他の動物の隔たりは埋めることができない。」[進化論者の]Steven Pinkerは、これをかわすどのような策を講じているのだろうか?

ウォーレスが上の宣言をしたのは、1910年12月、彼の壮大な進化総合説The World of Life: A Manifestation of Creative Power, Directive Mind and Ultimate Purpose(生命の世界:創造する力、指令する心、および究極の目的)の出版に先駆けて行われた、デイリー・クロニクル紙のHarold Begbieとのインタビューであった。ダーウィンが大いに悔しがったことに、この自然選択説の共同発見者は、すでに1867年4月のクォータリー・レビュー誌で同じ趣旨の発言をしている。同志としての関係を保ちながらも、この「異端説」は2人の博物学者の間に大きな亀裂をつくり出し、それ以後、ダーウィンの弟子たちはウォーレスへの返答を探し求め続けている。

最近、ハーヴァードの進化心理学の寵児スティーヴン・ピンカーが“The Cognitive Niche: Coevolution of Intelligence, Sociality, and Language”(PNA, May 11, 2010)という論文で、ダーウィニストを救出しようと試みている。ピンカーは、ウォーレスが「抽象能力は古代の人間には無用のものだったのだから、インテリジェント・デザインでしか説明することはできないと主張している」と指摘している。珍しく明敏なところを見せて、ピンカーの言っていることは正しい。ウォーレスは、人間の心だけのもついくつかの相――音楽愛好、ユーモア、抽象的推論、数学など――は、ダーウィンの有用性の原理、つまりいかなる器官も属性も、それをもつ生物に有用であるか、かつて有用であったのでなければ存在することはできない、という考えによっては全く説明できないと考えた。ピンカーはこれについてウォーレスを一蹴し、これらのより高い精神の属性は、すべてダーウィンの原理によって説明できると読者に保証している。ピンカーはウォーレスの主張を「悪名高い」として攻撃しているが、このダーウィンから離反した同志は、自分の立場を決して譲りことなく、自然選択の限界についてさえ主張を広げるようになった。彼がこれを最もはっきり述べたのは、Darwinism (1889)と上記The World of Lifeの2著においてである。

それから100年を経た今日、ピンカーはウォーレスの提起した「深い謎」すべてに、the cognitive niche(認識の適合する窪み)という概念で最終的に答えることができると保証している。では、ピンカーの議論が彼の大言壮語にふさわしいかどうかを見てみよう。

「認識の適合する窪み」は新しい考えではない。それは最初1987年にToobyとDeVoreによって提案されたものである。しかしピンカーは、これこそ、ウォーレスの否定した当のものである自然選択によって人間の心の進化可能性を説明するのに、特別 の意味をもっていると考える。その考え方は2つの仮説に基づいている――1)「因果 の推論と社会的協調を通じて環境を操作するという特徴をもつ生き残りの様態」2)「cognitive nicheにおいてうまくいくように進化した心理的能力は、ともに人間の言語に生き生きと見られる、比喩的抽象と生産的結合という過程の抽象的領域に、取り込むことが可能である。」

いかにも学問的に聞こえるが、それはピンカーが現実にこのどちらをでも証明しようとするときまでのことだ。話は急速に、人間が現在なしていることについての、取るに足らぬ 説明へと落ちていき、原始時代のある原人なら、こうした「かもしれない」、「たぶん」ああしただろう、といった空想的シナリオのオンパレードになっていく。まるで花飾りのように、「かもしれなかった」「として役立ったかもしれない」「たぶん」「結びつくかもしれない」――7頁の論文に21箇所も――といった言葉を使いながら、ピンカーはウォーレスの背理を「解決する」と約束する。もしこれがすべて単なる空想なら、これは広く進化心理学者に共通 する絶望的な希望的観測だと言ってよいだろう。しかしピンカーは次のように説明を試みる――「物理的・社会的推理のために有利に選択された認識のメカニズムは、ホモ・サピエンスが現代の科学や哲学、政治、商業、法律などに要求される高度に抽象的な推論に取り組むことを可能したであろう。」彼の謎に対する答えはこうだ――大多数の人間はそうしないのだ! ただ少数の人間だけが「みんながやれば覚えられること」をやることができる。例えば? 例えばニュートンの機械的物理学の代わりに、ほとんどの人間的「物理学」は、「中世のはずみ(勢い)理論」に近い直感からなっており、大多数は「創造論」のような「直観的生物学」を信じてきた。また大多数は「機械論的生理学」よりも「生気論」に傾く推論をしてきたのであり、心の問題については、大多数が「神経生物学的還元主義」よりも心/身二元論に執着してきたのだ。ただ「いくらかの人間」だけが、彼の言うところによると、「現代の知識を構成する別 の物を考えることができた」のだ。明らかに「少数者」が、いかにしてこれを成し遂げることができたのか、それはピンカーが〈比喩的抽象〉と名付ける「心理言語学的現象」から来ている。

ところでこれは明らかに科学ではない。これは腐った現在中心主義であり希望的観測である。それはピンカーが「進歩的」で「現代的」だと評価するものに特権を与え、他のすべてを自己充足的無知だとして退けるものだ。ピンカーの世界では、アヴィセンナ、ジャン・ビュリダン、ニコル・オリスムのような中世の学者は、一様にはずみ(勢い)理論を論じたがために、「高度に抽象的な推論に取り組む」ことができなかった、と考えなければならない。ピンカーはデカルトをもそこに加えるのであろうか? ウィリアム・ペイリーとその創造論、ベルクソンとそのエラン・ヴィタール(生命の飛躍)についてはどうなのか? 彼らも「高度に抽象的な推論」ができなかったのか? もし優勢な現代科学のパラダイムを支持する「抽象的推論」だけに意味があるとすれば、それは最もたちの悪い現在中心主義である。それは後ろ向きに推論して、このパラダイムに特権を与える概念だけに意味があるとし、他のすべての説明(抽象的だろうと何だろうと)は原始的な先祖返りだと想定するものであり、一般 にstacked deck(自分に有利な計らい)として知られるものだ。ピンカーは、アヴィセンナやビュリダン、オリスム、デカルト、ペイリー、ベルクソンらは、ネアンデルタール人に近い知能をもつ者と主張するのであろうか? この考えが滑稽なのは、それ自身を否定するからである。

ピンカーの議論は全く通用しない。人間の心が抽象的推論能力を獲得したのは「〈比喩的抽象〉と呼ばれる心理言語学的現象」によるものだなどという主張は、少なくともその前提が問題であるか、よく言っても同語反復である。ウォーレスならこれを「単なる言葉の提案」と呼んだことだろう。

生物学者たちは、ダーウィニストが人間精神を説明するときの安易な想定に、疑問を呈し始めている。例えば、Johan J. BolhuisとClive D. L. Wynneは、2009年4月のネイチャー誌に、「進化論は心がどう働くかを説明できるか?」という論文でこれを問うている。彼らの短い答えは、今までのところ否、というものだ。しかしこれは、過去20年の、この問題に肯定的に答えられると称する彼らの同僚に厳しい批判を向けるようになるまで、わからなかったという。ボルイとウィンによれば、「多くの研究を念入りに読んでみると、適切な対照標準(control)の条件がしばしば欠落しており、軽率な擬人的過大解釈のあまりに、より単純な説明が見落とされていることがわかる。」(p.823)人間と、チンパンジー・サル・類人猿の間の、認識能力の連続性と行動の近縁性についての主張に疑いをもちながら、彼らはこう示唆する――「このような事実の発見は、認識問題にダーウィニズムを真っ直ぐに適用することに、疑いをもたせるものだ。ある人たちはダーウィンの連続性の考えは間違いだとさえ言っている。」(同頁)「ダーウィンの洞察」には敬意を表しつつも、ボルイとウィンは、我々の認識の理解を明らかにするよりむしろ混乱させる「恣意的な学術用語の茂み」や「素朴な進化論的前提」からの解放を、手厳しく要求している。

C. M. U. Smithの論文 “Darwin’s Unsolved Problem: The Place of Consciousness in the Evolutionary World”は、ダーウィンの心の理論を、あまり批判的ではないが注意深く吟味した後でこう結論する――「ダーウィンの当初の問題は未解決のままである。我々はこの惑星上に生命世界がどのようにして始まったのかについては、理解がより深まったかもしれない。…しかしqualia(質的なもの)つまり現象あるいは感覚としての意識が、どのようにして存在するようになったのかについては、一世紀半前のダーウィンより理解が進んでいるわけではない。」(Journal of the History of Neurosciences, 19:2,3 May 2010:105-120, 119)

ダーウィンの心の理論の根本的な問題は、人間と動物の感情を本質でなく、程度の違いとして連結しようとすることである。「人間と他の動物の間に深い境界はない」として、スミスや(ピンカーを含む)実に多くの進化生物学者が、ダーウィンのこの考えは正しいと考えている。ダーウィンは「ジェニー」という名のロンドン動物園のオランウータンの行動を観察してこの結論に至った。ジェニーが、飼育係がしてはいけないと教えたことをやったときに逃げて隠れるのに気づいたダーウィンは、動物の「恥意識」と「自意識」の証拠がそこにあると結論した。しかしこれは本当に人間の感ずる恥の意味での恥なのだろうか? ジェニーは飼育係の叱責に対して、罪と当惑と自分の不徳を感じたのだろうか? そう考えるべき理由は全くない。もっと説得力のある説明は、ジェニーも他の動物と同じように、オペラント(実験者)の条件付けに反応していたということである。ジェニーが隠れたのは、以前に飼育者からの叱責と罰を招いた同じ行動を覚えていたからである。社会規範のより大きな複合体が破られたときに人間が経験し予想さえする、反省や罪の意識や当惑は、動物の世界では知られていない。これらは量 的でなく質的な違いである。オランウータンの「恥意識」は、ボルイとウィンが嘆いている「擬人的過大解釈」の一例にすぎないように思われる。

動物と人間の間の、ウォーレスの指摘する深い溝にかけられた橋は、現実にこれを渡ろうとする最初の試みでたちまち崩壊する。この問題は(ネオ)ダーウィン進化論の本質として存在するものであり、スティーヴン・ピンカーのそれを含む、それらすべてのアプローチに歴然と見えているものである。なぜか? それはすべての善良な進化心理学者と同じく、ピンカーには自然選択が、生物学的複雑性を生み出すことのできる唯一のものに見えるからである。

中には、これは何と言ってもギャップの議論だから、ダーウィン的メカニズムによる人間の心の問題への解答も、今は頼りないが将来には見つかると考えていけない理由はない、と言う人があるかもしれない。これは、もしダーウィン批判者がこの問題に対するよりよい解決案をもっていないとしたら、通 用するかもしれない。しかし代替案があるのであり、しかもそのための圧倒的な経験的証拠、すなわち知的作用者からのみ生ずる特定された複雑性の総体が存在する。ここから2つの問題が生ずる――1)インテリジェンスは単にランダムな変異に働きかける自然選択から生じたものか? 2)それはインテリジェンス自体の正確な、あるいは適切とさえ言える見方であるか? これらに対する正誤の答えが、なぜウォーレスの挑戦が、これほどダーウィニストにとって今なお手に負えないのかを説明するかもしれない。心(精神)を何かの唯物論的公式に還元するのに代わって、別 のアプローチが可能なのである。「インテリジェンスは世界の根本的な特質なのではなかろうか?」と、ウィリアム・デムスキーとジョナサン・ウエルズは書いている、「それは現実世界の全体に生命を与える原理、生物理学的宇宙を通 じて我々が見出し、動物、特に人間に顕著な認識能力に反映されている、驚嘆すべきパターンを作り出しているものではないだろうか? 世界が理解可能であり我々の知的能力(インテリジェンス)が世界を理解できるという事実そのものが、我々のインテリジェンスを世界に適合させた、ある根底にあるインテリジェンスを指し示している。」(The Design of Life, p.15)ウォーレスも全く同じように考えたのであった。

ピンカーの「認識の適合する窪み」は、ウォーレスの挑戦への失敗した回答の試みの一例にすぎない。実際、The World of Lifeは、ダーウィニストがこれを退けて一世紀を経た今も、反論を拒み続けている。もちろん心/身問題は、自然選択の共同発見者たちよりずっと以前から存在していた。しかしここに教訓があるとすれば、それは、現代進化論はダーウィンの唯物還元主義的構築を全く必要となかったということである。一つの異なったアプローチが、自然選択のもう一人の生みの親、アルフレッド・ラッセル・ウォーレスによって提案されたのである。

このアプローチについての詳細は、最近刊行されたばかりの私の伝記Alfred Russel Wallace: Rediscovered Lifeをご覧いただきたい。

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