Discovery Institute News

クリスチャンは「ガリレオ・コンプレックス」を脱すべし

(書評)ジョン・レノックス著『神の葬儀屋――科学は神を埋葬したか?』

By: Logan Paul Gage
Crisis Magazine
January 14, 2008

キリスト教会は「ガリレオ・コンプレックス」をもっている、とある友人が私に語った。科学に対する教会の抵抗と迫害という歴史的物語に引け目を感じて、キリスト教徒たちは「科学的」と称する主張を敵にまわすことを嫌がるのだという。「コンプレックス」とはまさに適切な表現だ。それはよく考えられ意見でなく、無意識の思い込みの集合だからである。

こうした歴史的あやまり――ガリレオの物語はその顕著な例――を正したのが、ジョン・レノックスの近著『神の葬儀屋――科学は神を埋葬したか?』の大きな貢献の一つである。科学と宗教の対立という観念そのものが、19世紀の(今は信用を失った)一握りの著名な歴史家の作った物語だと言ってよい。ガリレオの迫害はこの物語の急所である。

現実には、ガリレオは神と聖書を信ずる者であり、彼は多くのイエズス会士の支持を受け、他方、多くの世俗的アリストテレス派から反対されたのである。後者はそのことで教会から敵視された。陰謀説を唱える者が何と言おうと、ガリレオは教会によって迫害されたことは決してなかった。ただ、ガリレオは論敵と渡り合うことが下手で、必要以上の挑発をしたようである。それはあやのある話で、「対立のテーマ」を確証するようなものではない。

あやまって流布した歴史物語を粉砕したのち、レノックスは一つのテーマを掲げる――宇宙と、とりわけ我々の地球という住み家は、デザインされたものである。デザインこそ、豊富な証拠が支持するように、生命を可能にするきわどく微調整された物理法則や、そもそも宇宙が存在する事実や、宇宙の理解可能で合理的な数学的構造を、最もよく説明するものだと彼は論ずる。そしてレノックスは、有神論こそこれらの現象を「首尾一貫して合理的に正当化するもので、自然主義(唯物論)にはその力はないようだ」と言っている。

このオックスフォードの数学者・哲学者は、生物学にあえて立ち入り(これは「ガリレオ・コンプレックス」保有者に刺激を与える)、こう問いかける:――まず、ダーウィニズムは有神論と両立するか? 次に、ダーウィニズムは真理か? 

最初の質問に対し彼はイエスと答える。対立はないと言う。しかしこれは説得力をもたない。レノックスには悪いが、ダーウィン進化論のメカニズムを、重力のような、合理的な規則性をもち、物体を確実に目指す方向へ向かわせるような法則に対比することはできない。自然選択とは、ただ生物が違った比率で死ぬ というだけのことである。そこには目標も方向もない。導かれた進化であれば、それは健全な有神論と両立するが、導かれないダーウィン進化論とは両立しない。

しかし二番目の問題については、レノックスの議論はすばらしい。古生物学、生物学、化学などの主流の研究成果 を利用しながら、レノックスはダーウィニズムを切り崩し、議論の相性が合っていないのだと言う。なぜ間違った理論を正しい神学に調和させようとして、時間を浪費するのか?

レノックスは生物学を重要な領域と考えるが、それはリチャード・ドーキンズのような唯物論者が、それを反宗教的な目的のために利用しようとするからである。レノックスは、情報理論、数学、分子生物学といったものの幅広い総合によって、生命の中心であるDNAについて、説得力ある、証拠に基づいたデザイン論を展開する。

スティーヴン・マイヤーやウィリアム・デムスキーのような学者に倣って、レノックスは、盲目的なダーウィン的変異や選択によって遺伝子情報が生み出されることは不可能だと言う。DNAは、情報理論学者が「特定された複雑性」と呼ぶものを示している。乱雑に並んだ文字札は複雑であるが、それらは意味のある語順に並んだときにのみ「特定された複雑性」となる。DNAの何十億という化学文字は複雑にして、かつ特定化され、機能するタンパク質を組み立てることができる。

我々の経験においても、特定化された複雑性(すなわち情報)は、常に一つの心から生ずる。コンピューターのソフトウエアであろうと、書かれた言葉、あるいは信号であろうと、科学者は常に必ず、特定された複雑性は一つの心に由来するものと考える――ただ一つ、レノックスが言うように「明らかに一貫性を破るものとして」DNAがある。

「知的な行為主体を推論するということは、考古学、暗号学、コンピューター科学、法医学といった学問において普通 に行われている」と彼は説明する。「であるなら、なぜ物理学において、またより顕著に生物学において、一部の科学者が知的主体の手の跡を認めるからといって、これほど騒がなければならないのか? 原理的に違いはないはずである。科学の方法はあらゆるところで適用できるのではないのか?」

だとすれば、デザインこそ情報に満ちたDNAの最上の説明である。「従って、複雑にして特定化された情報の存在は、導かれない自然の過程が生命を説明することができるという考えに重大な疑義を呈するものであり、知的な源泉こそがそれを説明するという考え方に説得力を与える。」

こうした巧妙な一つの例によって、レノックスは唯物論者の結論を転倒させる――科学は神を埋葬するどころか、すべての生命の中心にある(大文字の)「心」が、還元不能のものとして存在することを証明する。ドーキンズの自らの意図を裏切る言葉を借りれば、「あらゆる生き物の中心にあるのは…情報である。」

科学が発見しつつあるのは「情報とインテリジェンスが、宇宙と生命の存在の基礎をなしており、それらは、エネルギーと物質だけで始まる導かれない自然的過程の最終産物であるどころか、最初からそこに関わっていたのである。」

この考え方に反対する人たちに注意しておきたい。これはいわゆるGod-of-the-Gaps(説明できない所を神でごまかす)の議論ではない。科学の進歩が発見したのは、説明を要求している情報の諸性質であって、説明を要求するギャップではない。本物のごまかし議論は、「その過程が全くわからないときに、『進化がそれをやってのけた』と言うのである。」

レノックスのダーウィン料理とデザイン擁護があまりにも説得力があるので、彼の第一の質問に対する間違いも問題にならなくなる。『神の葬儀屋』は実は、著者が知的主体とダーウィンのメカニズムの間に矛盾を感じていないがゆえに、なおさら説得力があるのかもしれない。

宇宙の始まりだけにデザインを認めようとする多くのクリスチャン知識人と違って、レノックスは、ビッグバンから現在の生物に至るまで、切れ目のないデザインの繋がりを見ている。彼の世界観はこの統一性のために、なおさら説得力をもつ。このようなデザイン理論の絶好の入門書を与えられて、キリスト教会は今度こそ「ガリレオ・コンプレックス」を脱することができるだろうか?

(Logan Paul Gageはディスカヴァリー・インスティテュート所属のポリシー・アナリスト)

 

最新情報INDEX

 

創造デザイン学会