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科学的原理主義者――宗教と科学の論争

By: Shmuley Boteach
The Jerusalem Post
June 24, 2007


最近、私は2つの討論会に参加し、これらを併せてみて、この時代の科学と宗教の本質について多くのことを学んだ。初めのトロントでの討論は宗教が主題で、著名な進化生物学者で無神論者のリチャード・ドーキンズが相手だった。2番目のニューヨークでの討論は、指導的なユダヤ‐キリスト教宣教師が相手で、イエスは私たちの罪のために死んだのかという主題であった。

私を驚かせたのは、宗教的な討論においては、相手と私は、お互いのもっとも重要視している信条に疑問を呈したにもかかわらず、どちらの側も不快になるようなことがまったくなかったことである。聴衆のおよそ千人のクリスチャンから、私に対して向けられる敵意というようなものは更に少なかった。宗教的な人々は、今日では、自分たちの信仰が疑問に付されることには慣れていて、守勢に立つことは大した問題ではないのである。

科学についてはそうではない。科学はあまりにも長く覇権を享受してきたため、それ自体が自らの正統となり、あえてこれに疑問を呈するということはなくなった。次に述べる私の体験がそれを証明する。

私はこれまでに、オックスフォードの「科学の一般 理解」科目教授であるリチャード・ドーキンズが出演した5つの討論に、論者あるいは司会者として関わった。討論を通 してドーキンズと私は友人となり、彼はオックスフォードにある私の家の安息日のランチに出席さえした。

しかし、それまでのそうした私たちの暖かい関係は、トロント大学における「トロント市思想会議」で発言の順番を待って座っているときには、すっかり消えていた。私には、ドーキンズの態度が硬化しており、おそらく宗教と宗教的な人間を区別 することができないために、前者に対する軽蔑が後者に対する侮りとなっているのが見て取れた。

ドーキンズは、宗教に何らかの社会的な利点があるかどうかには関心がない、という主張から始めた。問題はただ、それが真理であるかないか、ということであった。そして宗教は嘘っぱちである、というのが彼の固い信念であり、だからこそ彼は宗教に対する反対運動をやっている、ということだった。彼は続けて、神の実在が論理的、数学的に不可能であること、そして進化は真理であると主張した。

私の番になったとき、私は、宗教が嘘っぱちだということに世界を目覚めさせようというドーキンズの、人道主義的な運動に対する疑義から始めた。私は「なぜ宗教だけが、あなたの気になるウソなのですか?」と訊いた。結局、彼は一人の英国人であり、ある人間は生まれながらの王族であるのに、他の人間は普通 の人間として生まれるというウソを助長する国に住んでいるのである。

王権神授説を拒否する近代の平等主義社会の一員として、ドーキンズは英国の教区牧師、ラビ、聖職者たちに反対するように、英国の皇族を強く非難すべきではないのか? ただし彼が、たとえ皇族という観念が人間によってつくられた虚構の概念だとしても、それは千年におよぶ英国の伝統があって実際的な社会的価値をもっているのだから、それを維持するのはOKだ、と思っているなら別 である。

しかし宗教は有用な神話以上のものである。私にとって私の信仰は真理である。私は神がこの世界を創ったと信じている。そして私は、現代科学が創造を進化に置き換えたことを理解している、と言った。しかし、この理論はなお多くの説明を必要とし、埋めなければならない多くの穴がある、とも言った。

私は、サセックス大学の故ジョン・メイナード-スミス教授のような著名な進化論者と、進化について討論したときのことを述べた。そのような討論において、科学者は宗教に対する合理的な異議を唱えたが、同様に、宗教の側は進化に対する合理的な異議を唱えたのである。

進化論には大きな矛盾があり、そのためにそれは一つの理論に留まっているのである。そうした未解決の問題の主要なものは、第一に、いかにして進化は、熱力学の第二法則すなわちエントロピー増大の法則に反して起こるのか、ということである。

第二に、遺伝子の突然変異――これはまさにネオダーウィニズムのエンジンというべきものである―は、ほとんど常に有機体にとって破壊的に有害であり、このことは、自然選択をともなう突然変異が、究極的に、より高次の複雑さを生み出すという考え方に、深刻な疑問を呈するものである。

第三に、この140年間、地球を掘り起こしてきたが、それでも化石記録にはまだ巨大な埋められぬ 穴、何千万年の進化を説明するはずの失われた環がある。そのために多くの指導的な古生物学者、特に著名なハーヴァードの故スティーヴン・ジェイ・グールドなどは、進化の進行について、ドーキンズのような科学者が説く緩慢で漸進的な上昇ではなく、断続平衡説――階段状に飛躍する進化――を主張するのである。

実際、ダーウィンは『種の起源』において、生命の起源を説明する理論ではなく、化石記録を説明する理論として、進化論を展開したことを明らかにしている。そのため理論は、現実の化石の事実に一致するものでなければならなかったのである。

私は自分の経験から、科学者たちはそうした進化論への異議に対して、いつもこう応じていると述べた――もし十分な時間が与えられれば、すべての進化の問題点は克服できるものだ。何十億年という膨大な時間の中では、偶然的な進化によって、複雑な生命が形のない宇宙的スープから進化してきたという、不可能に思える数学的確率をも克服できるのだ。

確かに、突然変異はほとんどすべてが有害で致命的なものだ。しかし無限の時間の中では有益な変化というものがなお十分にありうる。また、もっと時間をかければ欠けている化石のつながりも最終的には見つかるだろう、と。

そこで私が結論づけたのは、宗教と科学を分けるのは意味の問題にすぎないようだ、ということであった。宗教が神と呼ぶものを、科学は時間と呼んでいるのである。

科学者にとって、時間はほとんど神のようなものであり、数学的には不可能に近いようなことを、時間は奇跡的に実現するのである。

話し終えてからステージを降りるまで、私は聴衆から熱烈な喝采を受けた。ところがすぐに、怒った世界的に有名なある物理学者が、私に食ってかかった。彼は私に、進化は事実であり疑問を提起する余地はないと言った。私は、それをあえて否定はしないが、すべてを疑ってみるのが科学の目的ではないかと思う、と応じた。

二、三人のリポーターが私たちのやりとりを観察していた。その一人は、役割の逆転を目撃したようだと私に言った。彼は、宗教的な人物こそが、信仰は疑問の余地のないものだと言うのを期待していたのであった。

数時間後、カクテル歓迎会で、私はあるハーヴァードの物理学教授と楽しく会話をしていた。彼女は突然、言葉を挟んで「あなたのように頭のいい人が自動的な進化を信じないのは興味深いわ」と言った。

私は彼女の皮肉な賛辞に謝意を表して言った。「もし私があなたに『あなたのように頭のいい人が神を信じないのは興味深い』と言ったと想像してみて下さい。あなたは多分、私が狭量 で、わざとへり下ってみせるイデオローグだと思うでしょう。」

アルバート・アインシュタインは、かつて信仰と理性の共存について、「宗教なき科学は盲目であり、科学なき宗教は不具である」とコメントした。しかし我々の時代では、信仰に対して不合理な反感をもつ多くの科学者たちが、科学を一つの新興宗教にしているのである。

(筆者とオックスフォードのリチャード・ドーキンズとの討論は、彼の本『オックスフォードのモーゼ』に収められている。彼の最新の本は、彼のテレビシリーズから名づけられ、『家の中の平和(Shalom)』という。)

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