Discovery Institute News

デザイナーを恐るることなかれ

Tom Bethell
National Review Online
December 1, 2005

私の新著『政治的不公正な科学ガイド』(The Politically Incorrect Guide to Science)は、危機にさらされた種から、いわゆる宗教と科学の衝突にいたるあらゆる問題を扱っているが、特にそのうちの二つがラジオ・インタビューなどでしばしば取り上げられている。すなわち地球温暖化とインテリジェント・デザインである。

ほとんどの右派の人々は地球温暖化については合意している――それはほとんど科学の装いを凝らした政治である。しかしIDについてはどうか?

これについては保守派の意見は分かれている。多くの人々――社会的上層部と呼ぶべきか――は進化に対して懐疑的であり、これを投げ出そうとしている様子が見て取れる。他の人々――おしゃべり階層というべきか――は事態がもう手に負えなくなったと感じており、こと進化に関しては、ハーヴァードやイェールの学者にもう少し敬意を払うべきではないかと考えている。

George Willは最近、カンザス州教育委員会(インテリジェント・デザインを取り込むように理科基準を修正する可決をした)が「保守主義を穏健な人々にとって嫌なものするような保守派の人々によって」牛耳られていると発言した。Charles Krauthammerもまた、進化論懐疑派を礼儀ある社会の一員として認めるべきでないと言った。

しかし俗物的な軽蔑だけで、ID唱道者たちによって提出されている事実や議論が取り扱えるわけではない。

ジョージ・ウィルは、進化は事実だと言う。そうだろうか? それは進化という言葉の意味による。一皿のバクテリアに抗生物質を加えて、あるものは死にあるものは生き残ったとすれば、そこに起こっているのはバクテリアの抵抗だろう。これが(ダーウィンの偉大な発見として彼に名声をもたらした)自然選択であり、従って活動中の進化の例証とされる。クラウトハンマーは得意になって、ID唱道者は、進化論が「薬物抵抗力の発達のような事実を説明する」ことを「認めた」と言っている。

しかし現実に培養皿で起こっているのは何か? バクテリアの中には、抗生物質に対して免疫を与える酵素が自然に備わっているものがある。だから大多数のバクテリアが死んでも彼らは生き残る。栄養物が皿に残り、抵抗力をつけた変種がたくさんの食べ物を得て繁殖する。以前には圧倒的に数で負ける相手だったのが、今や消え去った。そこで(前から存在していた)抵抗力ある変種が多数を占める。そこに見られるのは、すでに存在していたものの繁殖である。しかし有名な遺伝学者トマス・モーガンが百年も前に言ったように――彼はコロンビア大学で長年ショウジョウバエを研究しつづけ、ノーベル賞を受賞した――進化とは新しいものの創造を意味するのであって、すでに存在するものが増えることではない。

とはいえ、もし進化というものを遺伝子率の変化と定義するなら、まちがいなくそこにはバクテリア個体群の割合の変化が起こっている。だから、もし進化というものを十分に控えめに定義するなら、進化を事実だと言うこともできる。中には進化を「時間をかけて変化すること」と定義する人もあり、その場合も進化は事実である。

しかし進化論者と言われるような人々にとって、進化とはたったそれだけのものではないことを我々は熟知している。

我々は進化が、次のような重要な質問に答えるものであることを信ずるように――まさに「信ずる」ように――要求されるのである。――「このあらゆる豊かさをもった生命は、どのようにして地上に現れたのだろうか?」それはそれ以前に存在する生命体がゆっくりと、連続的に変形することによってである(とダーウィンは言った)。過去をうんと遡って、ダーウィン主義者があったに違いないと仮定する「暖かい小さな池」に行ってみてごらん。きっとそこでは、特別 に何もないところから、生命がひとりでに生まれてくるのが見つかるはずだ。長い長い時間をかけて、原子や分子がからみ合い、少しづつ複雑な構造になっていった。そしてついに、最高の最もできのよい構造が意識を獲得し、こう尋ね始めた――「いったい我々はどのようにしてここにきたのだ?」昔からそれに対する答えは、「我々は知的にデザインされたもののようだ」というものであったのだが、異を唱える人たちが現れたのである:「いや、いや、いや、我々はみんな大昔に、暖かい小さな池から現れたのだよ。」

誰を信じたらよいのか。あるいはもっと科学的にアプローチすべきかもしれない――「何が事実なのか?」

もしバクテリアの抵抗力とか、「時間をかけての変化」とか、ガラパゴス諸島のフィンチのくちばしのサイズ、といった取るに足りない例を除外して考えるならば、我々は進化について知っていることはほとんどない。進化が起こっているのを我々の周囲に見ることも、地層に中にも見ることもない。

私は拙著で、英国自然史博物館の古生物学者Colin Pattersonが、ニューヨークのアメリカ博物館で、専門家の聴衆に語った言葉を引用している。彼は進化について自分が知っていることは「たった一つもない」と語った。彼はまた、シカゴ大学での進化・形態学セミナーで聴衆に、何か知っていることがありますか、と尋ねたことがあった。「私が得た唯一の答えは沈黙であった」と彼は言っている。

パタソンは先年亡くなったが、彼は無神論者で、かつて私に聖書を「嘘の寄せ集め」と考えていると語ったことがある。彼が聖書原理主義者として糾弾される余地は全くないわけである。人々が驚いた調子で「でも、あなたは現に進化を信じているのでしょう?」と尋ねると、彼は「科学は信仰体系ということにはなっていない」と答えたものである。

そこで進化の証拠として引証されるものを見てみよう。化石の記録はまれである。例えば、コウモリ――飛翔能力を持った唯一の哺乳類――は、すでに十分に発達したソナー装置をもって、化石記録の中に突然あらわれる。コウモリの世界的権威者がかつて言ったように、「半分コウモリというものはいない」のである。専門家たちは、最初のコウモリがどんな動物から生まれてきたか全くわからないと言う。

進化が説明しようとする構造物はあきれるほどに複雑である。ダーウィンの時代に「単純なプロトプラズムの塊」と考えられていた細胞は、ハイテク産業の工場ほどに入り組んだものである。それが進化したという現実の証拠はない――にもかかわらず我々は、進化したと信ずるように求められる、いや強要される。

人間の体には300兆の細胞があるが、その一つ一つが、成長する有機組織の中でどんな役目を果 さなければならないかを「知っている」。今日にいたるまで発生学者は、このことがどうして起こるのか――彼らが150年間それを知ろうと試みてきたにもかかわらず――全く分かっていないのである。

生き物のするような、すばらしいことのできる新車を開発した自動車メーカーがあったと想像してほしい。どれほど我々は驚くだろうか。この車は、故障があまりひどくない限り、自分で自分を修繕することができるだろう。へこみがあっても、数日でそれは直る。それは一日に数時間は休息しなければならないが、80年間、パンと水に少しばかりの野菜を加えたものを食べて働き続ける。そしてそれは同じ車の別 の型とつながって、数ヶ月で新しい小さな自分の複製を作り出すことができ、それがまた大きな車に成長して複製を作ることができる。

我々は実験室で、少しでもこの自動車メーカーに似たようなことができたためしがない。ところが我々は、毎日こういったことをする下等生物に取り囲まれていて、しかも驚きを表明することもない。我々は創造の驚異については、全く驚かないように訓練されている。「ああ、それは進化でそうなったんだ」と我々は言う。「それはランダムな変異の問題にすぎないので、驚くことは何もないのだ。」「こういったものは偶然によって生じ、選択されて残ったのだ。」

この「選択されて残った」という言い方が、あらゆることの十分な説明とみなされている。同じありきたりのこの言葉が、この世のあらゆるものの説明として与えられる。どうやってコウモリはソナー装置を手に入れたのだろう?「それは遺伝子に偶然の変化が起こり、それが選択されて残ったのだ。次の質問は?」眼はどうやって発達したのだろうか?「徐々にだよ。ランダムな変異があり、それが有利であったために選択されて残った。そして同じことが繰り返し起こったわけだ。次の質問は?」どうしてラクダの背にこぶができたのだろう?「偶然の変異が何らかの利点を与え、それが選択されたわけだ。次の質問は?」

これが、その前にすべての膝が屈しなければならない科学である。こうした説明は、「そうなっているだけの物語」と少しも変わるところがない。現実に土を掘ってみる必要は全くない。理論家が単に問題の特徴をじっと考えてみて、いかにそれが有利であったろうかという憶測のもとに、尤もらしい物語を作りあげるだけである。

我々は進化論のドグマに疑問を差しはさむことを怖れる。そんなことをすれば狂信的と言われるかもしれない。「穏健でない」という言葉をジョージ・ウィルは使った。そこで我々は唯物論のドグマに付き合うことになる――無知とか、教育を受けていないとか、宗教の奴隷だとか思われないように。

チャールズ・クラウトハンマーが言うのは、ニュートンは宗教的な人だった、そのニュートンが科学と宗教が衝突するとは思わなかったのだから、なんで我々が良い子らしく進化論科学という薄いおかゆを食べて満足することができないか、デザイナーなんぞを科学の場に引っ張り出さなくても、ということである。

それは本物の科学ではないからですよ、チャールズ。実際ニュートンは、太陽や惑星や彗星の「最も見事な仕組み」は「知性をもった強力な存在の計画と支配からのみ発することができる」と考えた。しかしこれらの運動を支配する物理法則は、繁殖する何百万という種の、発達、増殖、成長、加齢を支配する生物学的機械装置の広大な複雑さに比べたら、単純そのものである。こういったメカニズムは、まだ発見されても記述されてもいない。自然選択という貧弱な同語反復――1830年代からの自由放任経済が生物学にとりいれられたもの――がさまざまな自然の驚異の十分な説明になりうると信ずるのは、おそるべき軽信というべきであって、それに比べれば、わが聖書原理主義者たちも顔色を失うほどである。

ジョージ・ウィルは、彼の嫌う考え方について一つだけ正確な批評をしている――「インテリジェント・デザインの問題は、それが間違いだということでなく、反証ができないということだ。反対の証拠が出せないのだから、それはテスト可能な仮説ではない。」これはその通 りである。しかし彼は同時に、ダーウィンの自然選択による進化論も、反証ができないことを付け加えるべきであった。

ダーウィンの名声の根拠は、進化のメカニズムを発見したことにある。彼は「最適者生存」ということを、自然選択説を十分に要約するものとして受け入れた。しかしどれが最適者なのか? それは生き残った者である。生き残りということから離れた適者の基準がない。何が起こっても、生き残った者が――定義によって――「最適」なのだ。これはIDと同じく、検証可能な仮説ではない。著名な科学哲学者カール・ポッパーが、自然選択が逃れることのできぬ この問題を論じたあとで言ったように、「これほどの貧弱な理論をテストすることは全く不可能である」。ポッパーは、科学的な理論をそうでない理論から分ける基準として、反証可能性ということを提案した最初の人である。IDも自然選択もこの点では同じである(訳者注、これについては異論のあるID論者がいるだろう)。

あまり議論されない根本問題は(訳者注、マスコミ論争などでは議論されないということ)、進化論が科学でなく哲学、すなわち唯物論哲学(自然主義)に基づいているということである。生き物が人間を含めてこの地球にいるが、どのようにしてこうなったのかは分からない。もし動いている原子や分子が存在するすべてであったなら、それらのランダムな相互作用が、人間を含めた存在するすべてを説明しなければならない。ダーウィニズムを根本で支えるのはそれである。しっかり見据えなければならないのは、IDの背後にある宗教というより進化の背後にある哲学である。

(トム・べセルはNational Reviewの常連寄稿者。彼の最初の進化論に関する雑誌記事は、1976年に Harper's Magazineに出た。最新著はThe Politically Incorrect Guide to Science)

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