意味に満ちた宇宙

意味に満ちた宇宙
―芸術と科学が明らかにする自然の叡智―

 ベンジャミン・ワイカー/ジョナサン・ウィット 著
 創造デザイン学会(原田・高木・渡辺) 訳
 アートヴィレッジ

 目次

 日本語版への序
 序章
 第1章 意味に満ちているのか無意味なのか
 第2章 『ハムレット』と意味の探求
 第3章 シェークスピアと叡智の元素
 第4章 叡智の幾何学
 第5章 元素の周期表――多くの著者による傑作
 第6章 発見のためにデザインされた宇宙のわが家
 第7章 元素の叡智
 第8章 生きた細胞の再浮上
 第9章 生きた生物の復活
 第10章 物質の終わり――意味に満ちた宇宙
 訳者解説
 索引

 日本語版への序

 我々の『意味に満ちた宇宙』が日本語に訳されましたことは、我々の栄誉とするところであります。日本ではアメリカほど、インテリジェント・デザインをめぐる論争が知られてはいないかもしれませんが、すべての考える人間が、このすばらしい世界の究極の原因について問いかけるはずです。我々のメッセージは、日本の読者に対しても、アメリカやヨーロッパの読者に対しても同じです。我々は、人間という最も不思議な被造物を含むこの自然界の深い輝く栄光に対して、自然な驚きを喚起したいと願っています。

 しかしこの『意味に満ちた宇宙』というタイトルの意味は何でしょうか。西洋においては数世紀にわたって、ある種の鉛のような唯物還元主義が知識人の心を支配してきました。そのような還元主義の教えるところでは、世界は全然すばらしい所ではありません。それは純粋に不合理な、敵対的ですらある自然の諸力の偶然の産物です。宇宙も我々の世界も、我々自身の人生さえ無意味だと教えます。どうしてそんなことが言えるのでしょうか。この世界が、ただ盲目的に作っては壊されるだけの気まぐれな化学的過程だとしたら、そこからどんな意味も生ずるわけがありません。

 存在の無意味さを主張する哲学は「ニヒリズム」と呼ばれますが、それはこの宇宙にも、我々の世界にも人生にも、究極の目的が全くないことを意味する名前です。我々はこの広く流布している哲学が全く間違いであると主張します。それは悪い哲学です――その主張するところが我々の気に入らないからでなく、それが誤った科学観と、自然そのものの誤った見方に基づいているからです。こうした議論がこの本では、文学や数学における意味の考察から、我々の宇宙の歴史や、科学そのものの歴史に至るまで、やや長く曲がりくねった旅へと我々を連れ出すでしょう。

 このスリリングな旅の最後に、我々は自分が実は「意味に満ちた宇宙」、意味と栄光にあふれる世界に住んでいること、そしてそれは、神聖なものの創造的叡智による産物でしかあり得ないことを発見するでしょう。

 我々は読者の方々が、我々がこれを書いたときと同じくらいに、この旅行を楽しんでくださることを期待しています。


2008年1月          
 ベンジャミン・ワイカー、Ph.D. 
 ジョナサン・ウィット、Ph.D.  

 訳者解説

 本書は、Benjamin Wiker & Jonathan Witt, A Meaningful World: How the Arts and Sciences Reveal the Genius of Nature (Downers Grove, Illinois: InterVarsity Press, 2006) の(わずかに省略したパラグラフはあるが)完全訳である。

 二人の著者はともに、我々の最初の訳書『進化のイコン――破綻する進化論教育』の著者ジョナサン・ウエルズと同じく、アメリカのインテリジェント・デザイン(ID)運動の総本山ともいうべきシンクタンク「ディスカヴァリー・インスティテュート」の上級研究員である。

 数多いID関係書の中で、まずこの本を選んで翻訳を試みた理由はいくつかある。一つには、この本が副題や目次からもわかるように、理系・文系両方にまたがって広い視野から論じた、いわば学問革命論だからである。それは今日の学問全般 の前提となっている唯物論的還元主義に対する根底的改革案である。今日の唯物論文化とそれに根ざす学問体制が、これでよいと本心から思っている人はいないと我々は信ずる。ここにID理論ないし運動の真髄が現れていると言ってよい。IDとは、ただ単に事を構えてダーウィニストと争うとか、自分たちの考え方を説明して能事終われりとするものでないことが、この本によってよくわかるだろう。

 もう一つの理由は、この本が科学を論じたものでありながら、一種の感動を読者に与えるものだからである。これは稀有なことではなかろうか。もちろん最初から偏見や敵意をもって読むならそれはありえないが、虚心にこれを読むならば、これこそ学問する者の本来のあり方だということに気付かされ、忘れていた貴重なものを思い出させてくれるであろう。それと同時にこの本は、「二つの文化論争」と言われて前世紀からの問題であった文系学者と理系学者の分裂・相互無関心という問題を解決する手掛かりを与えるだろう。これはID理論が本質として内在させる可能性である。この問題は当然ながら、両者を適当に連結しても解決にはならない。それらは有機的に、つまり一つの生きたものとして結びついていなければならない。それを可能にするのはIDのような有神論的宇宙解釈であって、これまでの唯物還元主義的宇宙解釈ではありえない。

 本書に一貫しているのは、芸術作品と自然界が本質的に同じ構造をもっているという視点である。自然と芸術は対立するものと教えられてきた我々は、戸惑うかもしれない。しかしIDが「デザイン革命」と言われるのは、まずその常識を覆すからである。この本で最もよく引き合いに出されるのはシェークスピア作品であるが、それは言語を構築的に用いたシェークスピア劇が、最も自然界(特に生命世界)に構造が似ているからである。自然界は自然にできたもので、デザインや目的などもつはずがないという思い込みに囚われている人は、いったんその固定観念をカッコに入れてこれを読めば、この両者の対比がいかに有効であるか、従ってこのアナロジーが単なる説明のための比喩でなく、現実の類似性であることに気付き始めるであろう。この本を読む理系の人は、シェークスピアが読めないとだめだ、文系の人は生物学の知識がないとだめだ、と言われているように思うかもしれない。しかしこれはいわゆる「教養」主義的な能力を要求しているのでは全くない。そうでなく、有機的全体と部分の関係をつかむ能力が、シェークスピアを読む場合も、生物を研究する場合も要求されていると言っているのである。

 この本のキーワードは、自然界の「叡智」(genius)である(これを「英知」とは訳したくない、「天才」とも訳せない、「自然界の天才」とは言わないから)。これはもちろん「インテリジェント・デザイン」と重なりはするが、いわゆるID理論を一歩先へ進めたものとも言える。つまり「叡智」は単に、自然界の「必然(法則性)」「偶然」と並ぶもう一つの要因としての「デザイン」ではない。叡智はデザイン以上のものである。そして自然界の深い叡智に最も近い特質を示す人工的作品として、シェークスピア劇が選ばれているのである。二流三流の芸術作品も必ずデザインによるが、叡智が働いているとは言えない。

 実はこの本が多くを負うており、その知見が前提になっている先駆的なID関係書が少なくとも二冊あり(それは随所で解説されている)、本当を言えば、それを先に訳すべきであったことを認めねばならない。一つはマイケル・デントンの『自然の運命――生物学の法則は宇宙の目的を開示する』(Michael Denton, Nature's Destiny: How the Laws of Biology Reveal Purpose in the Universe, 1988)、もう一つはギエルモ・ゴンザレスとジェイ・リチャーズ共著の『特権的惑星――宇宙における我々の位 置は発見のためにデザインされている』(Guillermo Gonzalez & Jay Richards, The Privileged Planet: How Our Place in the Cosmos Is Designed for Discovery, 2004)であるが、特に後者の論点が本書で大きく発展させられていると言ってよい。『特権的惑星』の副題の意味は、奇跡的な諸々の宇宙的微調整(fine-tuning)は、特に我々人間を頭において我々(のような高等動物)がこの地球上に生きることを可能にしているだけでなく、我々は諸々の科学的な発見をするように、そしてそれによって宇宙の秘密に参入できるようにはからわれているという意味である。これは「人間原理」(anthropic principle)と言われてきたものの更に深い解釈であり発見であるが、本書の第6章が「発見のためにデザインされた宇宙のわが家」となっているように、これは本書の基本的観点であり、宇宙自然界の無限の「叡智」とはまずそれを指すのである。 

 マイケル・デントンの『自然の運命』については、本書がほぼ祖述しているような形だが、その要点は、水や光や火といった我々が当たり前と思っているものが、実は恐るべく奇跡的な現象だという指摘である。こういったことは低学年の生徒にも十分わかることなので、是非とも授業に取り入れるべきではなかろうか。この本を支配しているのは、平たく言えば、なぜ我々はこんなにうまくいくようになっているのだろう、という根本に立ち返っての驚きである。

 特に、第5章「元素の周期表――多くの人々による傑作」にそれが顕著に現れている。こういう観点からの化学史というものは、まずないであろう。化学史をこのように見ることによって、それは一つの人格をもって苦労しながら、失敗しながら、しかし目に見えぬ 手に導かれて確実に真理に近づいていくものとして捉えられている。著者たちは、ほとんど化学史をいとおしさの目で見ているのである。これは神が人間を見る目に通 ずる。これは自然界にほとんど敵対し、これをねじ伏せて秘密を吐かせようとする唯物論科学の傲慢の対極にある、偉大なるものに対する謙虚と敬意と愛の姿勢である。

 科学者にとって導きの手を見分ける目安となるのは、第一に「優美さ」だと本書は言う。叡智というものの示す特徴はまず美と調和である。美と調和、特に数学のそれに導かれて自然は解明されてきた。高等数学の美しさを味わったことのない多くの読者のために、この本は第4章「叡智の幾何学」という一章を設けて、「ピタゴラスの定理」のユークリッドによる美しい証明を解説し、これを芸術作品のように味わってみよ、と言っている。人間が出現する以前に、宇宙の根源にこういう美しいロゴスによる構築物が存在し、それを解明する能力が人間に与えられているということ、これは驚くべきことではないかと言うのである。我々は生存闘争によって数学能力を自力で獲得し、サルどもに差をつけて生き残り、この世を支配しているのではない。我々の数学能力(言語能力も同様)は与えられたものである。

 この章のモットーに使われている有名なアインシュタインの逆説――「この宇宙について最も理解できないことはそれが理解できることだ」――はこの本の中心テーマだとも言える。ある別 のところで二人の著者はこう言っている――

プラトンは、数学の研究が、理性をもつ人間の魂をその肉体内でのまどろみから目覚めさせ、それを天に向かわせて宇宙の秩序と調和について瞑想させ、それを内部に向かわせて、その秩序を知ることのできる魂について瞑想させるのだと考えた。この二重の反省――人間の魂と天の秩序や調和の間の一種の融合――が可能なのは、人間の魂の中の理性(ギリシャ語でロゴス)と天のロゴスの間に深い相関性があるからである。この相関性がなければ科学は成立しない(1)。

 きわめて平たく言えば、アインシュタインの頭(つまり我々の頭)を創った人と宇宙を計画して創った人が、同一人物だということである。人間の頭(主観)で宇宙を理解することができることの不可解さは、唯物論的宇宙観に立つときにのみ不可解なのだと著者は言う。ついでながら、この本に引用はされていないが、本書の(そしてIDそのものの)基本的な姿勢をぴったり言い表す言葉として、次のアインシュタインの言葉とされる文章を引いておきたい――

私の宗教は、限りない、より優れた精神(illimitable superior spirit)が自らを開示して、我々のか弱い貧弱な心によって受け止めることのできるわずかの部分を、垣間見せてくれることに対する、謙虚な感嘆からなっている。理解不能の宇宙の中で開示される一つのより優れた理性の力の存在に対する、この深い感情を伴う確信が、私の神概念を形成している(2)。

 ここに美しいバラとそれを鑑賞している人がいる。ダーウィニスト=唯物還元論者はこれを両者とも偶然の産物だと言い、両者の調和関係も自然選択によって偶然に生じたにすぎないと言う。本書の著者はどう言うか。彼らはこれを、ビッグバン以来の宇宙の、想像を絶する規模と知力による絶妙で精緻な芸術創造の努力の結実の、一つの表れと見る。

 恋人が相手に贈るバラは、「最初の3分間に遡る一連の偶然」の結果 生じた物質系の乱れなどではない。そうでなく、バラを可能にする複雑さの層には、いくつもの銀河と多くの元素の形成を可能にした物理常数の根源的微調整、生命を可能にする鉱物を備えた我々の住む太陽系の形成、それに炭素、酸素、水、二酸化炭素、その他の生命に不可欠な元素や化合物を相互作用させ、生命世界の驚くべき組織統合を可能にする(しかし原因になるのではない)宇宙的かつ局所的な微調整――といったものが含まれている。そして最後に、生きた統一体として機能するバラ自体の、そしてバラの深層と表層の美をともに鑑賞できる、動物の中で特別 の能力をもつ人間の、生化学的な形成がある。スティーヴン・ワインバーグの「最初の3分間」は無意味ではない。それはバラと、科学者と、それをいとしく思う詩人と恋人を遠く指し示し、そこに結実を見る3分間なのである。(第10章「物質の終わり――意味に満ちた世界」)

 リチャード・ドーキンズのような超ダーウィニストは、百三十数億年をかけたこのような宇宙歴史のデザイン(計画、構想)の「結実」を百八十度逆の見方をして、これを「デザインのすばらしいまがいもの(simulacrum)」だと言う――「自然淘汰による進化は、途方もない複雑さと優美さにまで登りつめる、デザインと見まがうすばらしいまがいものを作り出す」(『神は妄想である』121頁)。
 本書は一章を設けて(第2章「『ハムレット』と意味の探求」)、ドーキンズの『盲目の時計職人』(1986)の、よく知られたあのハムレットのせりふの一行をめぐる主張が全く意味をなさないことを論証している。これはドーキンズのかなりの旧著だとはいえ、やっておかなければならないことである。なぜなら、ドーキンズも、おそらくダーウィニスト一般 も、これを訂正したり引っ込めたりする気はないらしいからである。
 この章から本書の要諦ともいうべき箇所を指摘しておきたい。眼の進化ということについてダーウィニストは、眼は光に敏感な皮膚の一部が徐々に進化して、いろいろな段階を経て、脊椎動物の複雑なカメラ式の眼になったと説明する。これは受け入れがたい説明だが、ではどう考えればよいのか。どこに問題があるのか。本書の見解はこうである――

 脊椎動物の眼は単純に進化することはできない。それはまさに、眼は複雑な自己完結的な実体として機能することはできないからである。眼は非常に複雑な、相互に絡まりあった生きた実体の一部である。にもかかわらず、それはあまりにもしばしば、子供が組み立て人間ブロックを扱うように、カチャリといったんはめ込めば、それで「見る」ようになるかのように扱われる。しかし「見る」ことに関わる現実の体の組織機能をたどってみれば、眼は視力(vision)というものの小さな一部にすぎないことがわかる。見るということはドラマのような活動、すなわち眼をその一部として定義する全体的活動である。…したがって議論は、眼の進化ということでなく、視力(見ること)の進化についてでなければならない。

 この前後を読んでみていただきたい。これは眼の進化をどううまく説明してのけるかの問題でなく、そもそもどう考え方の筋道を立てるかの問題であることに気付かされるであろう。もし眼の「進化」というなら、それは局所的な目の玉 の変化などでなく、むしろ宇宙的大事業として説明されねばならない。

 この本は初めに述べたように、考え方の一大転換を促すために書かれている。これは我々が、唯物論文化という泥沼にはまって不可能になってしまったものの見方を、回復させようとするものである。「常識に帰れ」と著者は言う。それが科学の方法として最も健全であり、最も自然が姿をあらわしてくれる方法であると言う。その観点から最後の一、二章では、「脱構築」など言語に対する現代精神の異常さを指摘する文明批評を展開しているが、これも先に述べたように、正しい観点を取ることによって自然にものが見えてくるのであって、知識の広さをひけらかしているわけではない。

 おそらくこの本の教える最大のポイントは、我々が今まで考えてきたように科学と宗教が対立するのではなくて、無神論科学と有神論科学が対立するということ、そしてどちらが説明の仮説として有効かということである。現在がその転換を迫られている時期であることは間違いない。我々はどちらかを選ばなければならない。感覚を研ぎ澄まして自分で判断すべきである。

(1) Benjamin D. Wiker and Jonathan Witt, "Pope Benedict and Nature's Genius", Crisis Magazine, October 1, 2007
(2) 1955年の「ニューヨーク・タイムズ」のアインシュタイン死亡記事が典拠とされている。

2007年11月  訳 者  


創造デザイン学会